連続性と無限

 物理的な運動変化の連続性、平たく言えば、スムーズなボールの落下、途切れることのない、流れるような風の動きとはどのような変化なのか。この問いこそギリシャ以来多くの人が関心をもってきた謎の中の謎であった。私たちの眼には運動変化は連続的な変化として映る。どんな対象も連続的に位置を移動しているように見える。その変化の妙は時には美的な感動を引き起こす。私たちの適応は運動変化が連続していることを前提にした適応としか言いようがないほどに、運動が連続的であることは私たちの生活や行動の基礎になっている。つまり、自然の変化は運動を基本にしていて、その運動の基本的な特徴は連続的な変化にある、これこそ人が経験的に獲得してきた想定である。だが、この感覚的に明らかな特徴は、それを非感覚的に理解しようとすると大変厄介な事柄となる。命題の真偽が真と偽の二値であることがほとんど自明であるのと同じように、運動の連続性は疑いえない事実として問題になることはなかった。
 自明としか思えない運動の連続性の本質を見極めようとすれば、どのようにすればよいのか。運動変化の表象装置として感覚知覚を使わない、別の装置が考案できれば、感覚的でない仕方で運動の連続性をより冷静に、別の視点から理解できることになる。この見込みこそ、数学と物理学の関係の基本にあるものである。運動を感覚知覚的に表象するのではなく、数学的に表象することこそ数学と物理学の二つの関係の中枢にあるものである。運動を適確に表象する枠組み装置が幾何学であり、幾何学によって世界を非感覚的に描くということがギリシャ以来人類が採用してきた伝統的な方法だった。
 運動の表象装置としての幾何学は、運動を描くのに不可欠な時間や空間の表象を含まなければならなかった。だが、それがギリシャユークリッド幾何学ではできず、デカルトによる幾何学の解析化を待たねばならなかった。それに伴い「無限」概念が重要な役割をもつようになった。それまで避けられてきた「無限が物理世界に存在するかどうか」といった問いに正面から立ち向かわなければならなくなる。確かに、時空の存在と無限の関係は多くの人々を惹きつける問いであった。
 点が連続的に並んでいることが線であることを認めるには、点が無限になければならず、連続性の背後に無限が横たわっていることを暗示している。だが、無限はギリシャ時代には忌むべき概念だった。それがアリストテレスの「(実無限ではない)可能無限」という折衷的で、曖昧な概念になり、カントールの「実無限」概念が登場するまで解析学を支えてきた。
 連続性の解明は、実数の連続性あるいは完備性(completeness)、そして実数値関数の連続性として考察の対象となり、解析学の基礎として不可欠なものとなった。実数を解明する研究者の一人であったカントールは、無限概念を実無限として解明しようとした。では、実無限とはどのような概念なのか、そして、実無限は連続体仮説(continuum hypothesis)とどのような関係になっているのか。それが20世紀の数学基礎論の大問題となっていた。

 パルメニデス風に考えれば、実無限と可能無限の区別などなく、二つは同じ無限で、完結した無限だけが意味をもっている。だが、アリストテレスは二つの無限を区別し、実無限の存在を否定する。「数が増えていく、減っていく…」といった変化する数の並びは認識上有効でも、数学的対象として可能無限を考えた場合、他の確定した数学的概念と自動的に組み合すことができなくなる。その意味で可能無限は曖昧である。可能無限は外延が曖昧な、反パルメニデス的概念であり、物理世界や心理世界の動揺を数学世界にもち込んだような効果をもっている。「完結した運動」だけが意味のある運動であると考える人は、完結した実無限だけが数学的に完結した意味をもつ無限と考えるだろう。だが、数学の直観主義者や構成主義者は変化する過程を変化し終えた結果として考えることに同意したがらない。確かに、変化の只中に身を置くなら、そこでは排中律が成立しない、典型的な非決定論的な世界となっている。
 最も実数らしい性質が「連続性=完備性」であり、この性質のお陰で微積分が可能となり、それを使って自然を表現してきた。 連続性を支える「限りなく近づく」ことのできる性質 が点と線の不思議な関係に基づいて成立している。連続する時間や空間を表現する最も適した数学的装置として、実数は数学者、そして物理学者の関心の的となってきた。
 「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到る」という点と線の関係が実数における無限分割可能性という語のもつ意味を独特なものにしている。自然数の集まりも無限に分割できるが、自然数をすべて集めても線をつくることはできない。では、その自然数からどのようにして実数をつくり出すことができるのか。それを示すことが集合論の研究目標だった。この目標はいまだ実現できず、実数が自然数より高い濃度をもつことはわかったが、その濃度が自然数の濃度の次の濃度か否かは今の公理的集合論においては証明できない。
 実無限、可能無限という区別は一見重要な区別に見える。 無限を扱う認識レベルではそうなのかも知れないが、存在レベルでは大きな意味をもっていない。認識レベルの話とは別に、「集合」は実数のもつ無限性を明らかにできる基本的概念である。

「要素が集まると集合ができ、集合は要素に分解できる」
「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到る」

上の文は比べるまでもなく、類似したことを主張している。点や線、そして実数のもつ基本性質は集合概念によって表現し直され、したがって、集合の基本性質から点や線、実数の性質が証明できることが保証されている。これが意味することは実に大きい。それは、

(1)集合論は古典的世界観を支える数学である、

ことを帰結する。と言うのも、実数を基礎付けるのが集合論であり、その実数によって表現されるのが古典的世界であるからである。特に、その時空は実数によって表現されている。古典的世界観の時空に関するアプリオリな前提は古典力学の時空に関する前提と同じであり、その前提は実数のもつ幾つかの性質そのものである。

(2)いつでも、どこでも対象とその状態が存在し、各状態の物理量の値は決まっている。

対象の性質で重要なのはその性質の内容であって、性質そのものではない。人には体重があり、「体重とはどのような性質か」という問いと「君の体重は何か」という問いは同じではない。君の体重が60kgであることが体重の具体的な内容であり、体重という性質そのものは通常は体重の定義において問題になるに過ぎない。対象の状態を定義する際には状態がどのような性質によって構成されているかが問題になるが、対象の状態の内容こそが状態を決めるのに必要となる。状態の内容は位置や速度の具体的な数値で表現される。
 上の文の物理量の値を満たすように実数を使う際、実数のどのような性質を使うか考えると、時空の表現と状態の表現に使われる実数の性質は、実数そのものをそのまま使うことによって済まされてきた。というのも、実数を使えばすべてが同時に満たされ、実数の性質のうちのどれといったものではなかったからである。実数の数学的性質がいつも物理的に有意味だとは言えないが、どんな数学的性質もいつかどこかで物理的に有意味になる可能性をもっている。運動の連続性は変化がすべて連続的ではない中で、運動がもつ特徴である。運動が起こる時間、空間が連続する中で、運動が不連続になるような状況があるだろうか。古典力学は通常次のような仮定を認めている。

(3)連続する時空の中で対象が不連続に運動することは物理的に不可能である。

運動する対象が不変、つまり、生成消滅しない場合、その対象の運動は不連続ではない。というのも不連続な運動が起きるとすれば、対象は消えたり、現れたりしなければならなくなるからである。無論、数学的に不連続な運動を表す不連続な関数を考えることは数学的には十分有意味なことである。だが、そのような対象は物理世界には存在しない。
 古典的世界観を支える(1)、(2)、(3)の前提は日常世界にしっかり浸透している。それらを前提にすべき理由より、前提にしないといかに不自然で、非常識的な事態が生じるか考えてみる方がよいだろう。そのように考えた場合、結果があまりに不自然、非常識だという理由から、三つの前提が正当化されたと誤って考えないように注意すべきである。
 運動の表現に実数を用いるということ自体が三つの前提を認めることを帰結する。「時間と空間の量子化」という表現は時間や空間を物質の原子論と同じように考えようということを意図しており、正に「時間と空間の原子論」である。すると、すぐに実数が不都合な装置であることがわかる。実数をそのまま使ったのでは原子論の主張と両立しないからである。そこで点ではなく区間で時間や空間の最小単位を考えるといった工夫が必要となってくる。区間を最小の単位にした場合、対象の運動はどのようになるのか、どのようにそれが表現できるのかという二つの異なる問題が出てくる。前者は物理学の問題であり、後者は言語、つまりは数学の問題である。