機械論(mechanism)の二つの間違い

 現在は誰も機械論が正しい主張だとは思っていません。ですから、機械論は歴史的な遺物に過ぎないということになっています。では、機械論の何が間違っていたのでしょうか。
 ガリレオ・ガリレイは『贋金鑑識官』(1623)で次のように述べました。物質の色や匂いや味や手触りなどの感じることができる性質は,感覚する主体がいないと存在できない主観的なもの(第二性質)であり、物体の形状・個数・配置・運動だけが客観性を持つ実在的なもの(第一性質)であると区別しました。(山本義隆『熱学思想の史的展開1―熱とエントロピー』,2008,ちくま学芸文庫)。
 当時発達した機械(17世紀の代表的機械は振り子やゼンマイ仕掛けの「時計」)のメカニズムをもとに考えられたのが機械論です。ルネ・デカルトの機械論的な哲学の主張は次のようなものでした。自然は神が作った精妙な機械です。機械の各部分は、それ自体としての意思を持たない,受動的な物質です。しかし、その部品が機械製作者の意思に基づいて組み立てられ、機械になると製作者とは独立に動き始めます。これは、カトリック神学の考えと非常に近いものです。その考えとは、神はこの世界をつくったのですが、その世界を人間に任せて退いたというものです。また、物質を受動的な物とみなし、製作者(神または人間)の意思だけが能動的であるという考え方は、精神と物質、心と身体の二元論的な考え方をもたらすことになりました。

 火に近づくと私は熱を感覚するし、そばに近づき過ぎれば苦痛を感覚するにしても、火のなかにはそうした熱に類似した何ものかがあると、またそうした苦痛に類似した何ものかがあると、〔私を〕承服する〔ことのできる〕なんらの根拠もまさしくない(『省察』)。

 哲学者たちがしているように、熱、冷、湿、乾と呼ばれる性質を私が使わないのを見て奇妙だと思われるならば,私は次のように言いたい。これらの性質はそれ自体が説明を要するように見えるし、また私たちの間違いでないとしたら、これら四つの性質ばかりでなく他のすべての性質も、生命のない物体のあらゆる形相さえも、その形成のためそれらの物質の内にその諸部分の運動・大きさ・形・配列のほかは何一つ仮定する必要なしに説明されうるのである(『宇宙論』)。

 ヨハネス・ケプラーも、ロバート・ボイルも、自然を時計仕掛けのようなものとして考えていました。デカルトのような機械論哲学では、歯車の組み合わせで機械が動くように、物質は互いに接触しなければ運動を伝えることができません。つまり、「近接作用」による運動が機械論の運動でした。したがって、ガリレオやその弟子たちはケプラーの法則(離れた太陽と惑星の間に相互作用があることを認める)を認めようとはせず、デカルトの追随者たちはニュートンの重力の法則(離れた物体同士が力を及ぼしあう「遠隔作用」)を批判したのです。
 こうして、機械論とは第一性質だけを認め、近接作用による運動変化によって世界を説明しようという哲学だったのですが、今ではいずれもが否定されています。