「心とは何か」

 「心とは何か」という問いは悪名高き問いの一つと言われてきました。「人間とは何か」のような「…とは何か」の形をした問いはプラトンイデアを背後に予想するような哲学独特の問いとして昔から有名です。ですが、これまでに「…とは何か」という問いにうまく答えられたことは皆無だと言ってもいいのではないでしょうか。そのため、この型の問いは良い答えをもたらさない不毛の問いということになり、特に科学者からは旧式の問いとして無視されるようになりました。もっとも、「人生とは何か」は今でも普通に問われ、その答えを見出そうと四苦八苦しているのが実情なのですが。
 「色とは何か」もそのような哲学型の問いで、誰も今では見向きもしなくなってしまった問いです(かつてニュートンはこの問いに触発され、光から色を研究し、ゲーテは自ら色彩論を展開したのです)が、「これは何色か」は至極日常的な問いで子供でも普通に尋ねるような問いです。同じように、「人間とは何か」はわからなくても、「これは誰か」は日常生活では常に問われる、当たり前の問いです。では、心の場合はどうでしょうか。これが結構厄介なのです。
 「色とは何か」から「これは何色か」に問いがシフトすると答えられるようになるのに対応して、「心とは何か」から問いが何にシフトすると答えられるようになるのでしょうか。「これは何の心か」、「これは誰の心か」のどちらもピンときません。ピンとこないのには次のような理由が考えられます。色という概念を構成するメンバーは赤、青、緑といった個別の色ですから「これは何色か」という問いには、例えば「赤色」と答えることができます。でも、心の場合、その概念のメンバーは個人の心ということになるのですが、「これはさんの心」というような答えができないのです。というのも、さんの心は「これ」と指さすことができないからです。赤色は赤色の信号を指さすことができるのに対して、Aさんは指さすことができても、Aさんの心は心と同じようにやはり指さすことができません。「Aさんの今の心」、「Aさんのここでの心」も同じように指させません。では、「Aさんの心」を指さすことができる場合はあるのでしょうか。
 Aさんの過去、現在、未来について、Aさんの心が込められた行為だった、Aさんが心から望む目標はCだなど、心そのものではなく、心が関与する事柄について、その事柄の原因や動機として心の存在を捉えようという考えが昔からあり、それが今でも続いています。私たちは殺人の動機や偉業の達成の背後に心の存在を認めようとしてきました。原因としての心の存在は今ではプログラムの実行者としての心に変わっていますが、実はよく似た考えに基づいているのです。実際、心はその機能の集まりだと20世紀には言われたものです。
 「真善美」はギリシャ以来人が求める最高に抽象的な事柄と信じられてきました。「真理とは何か」に対して「これは真か」、「善とは何か」に対して「これは善い振舞いか」、「美とは何か」に対して「これは美しいか」はいずれも答えることができる問いです。抽象的な真も善も美も、具体的に指さすことができる例をもっているのです。「美とは何か」にうまく答えることができなくても、「この絵は美しいか」には答えることができます。幽霊にさえ具体的な例があることは「ゲゲゲの鬼太郎」を読むまでもなく大抵の人にはわかっています。それと同じように私たちは「私の心」という謂い方を使っている筈なのですが、その「心」を具体的に指さすことはできないのです(「鬼太郎」は指させるのですが)。
 このように見てくると、「心」は実は「真善美」より抽象的というだけでなく、遥かに厄介な概念なのだということになります。