仏教の哲学瞥見

 龍樹は『般若経』の空観を釈迦の説いた縁起説だとして、「空」の理論を哲学的に展開し、「諸存在は縁起している。それゆえ、空である」と主張しました。どんな存在も他とは無関係に、それ自体として存在することは不可能であり、いかなる存在も本質をもたず、それゆえ、一切の存在は空である、というのが龍樹の結論でした。空理論は、言語表現を越える存在論的な理論です。
 龍樹の体系化は縁起説の空論解釈であり、存在論的であるところにその特徴があります。龍樹の空理論の最大の特徴は「縁起不生」です。『般若経』でも繰り返し「諸法不生」(一切の存在は空であり、恒常的に実在するものはない)を説いていますが、縁起の「縁」まで不生であると主張したのです。ヘラクレイトスの「万物流転」の考えに通じるものがあります。
 唯識理論が最初に現れるのは『解深密経』という経典で、龍樹の中論発表からおよそ200年後。理論的には、中論での縁起と言葉の虚構性という表現は、唯識では依他起相(他に依存する存在形態)と遍計所執相(仮構された存在形態)となっています。私たちが実在と思っているものは実在ではなく、因縁によって仮合したものにすぎないのに、それを言葉で実在として捉えて表現するので顚倒妄想が出てくる、というのが中観ですが、唯識では仮構された存在形態が先で、それは識の表象に過ぎないのであり、それを言葉が実在の如く誤解して表現するから顚倒妄想が生じるのだ、と理論展開しています。そして、中論ではなかった修行法が明示され、後期の大乗仏教で中観と唯識は融合され現在に至っています。
 唯識論は認識が中心の理論ですが、認識する私たちの心をどのように捉えているのでしょうか。それが「阿頼耶識」で、「私」という自意識を形成し維持するための基本構造体、一種の「枠組み」です。コンピュータのハードディスクに相当し、阿頼耶識はあらゆる過去の記憶を保持し、情報の上書きと出力をしている「心の働き」の基底部分です。ですから、阿頼耶識自体はその上にある心によっては認識も感覚もできず、阿頼耶識自体、何らかの「意志を持つ」ということもなく、ただひたすら情報の入出力をするだけのものです。すべての情報を受動的に受け入れるだけです。
 「心」や「意識」は、仏教理論では「心・意・識」の三層構造からなっていると考えます。まず、「心」は第八阿頼耶識で、主記憶装置であり深層意識です。次の「意」は第七末那識で、演算装置であり潜在意識です。最後の「識」は前六識で、眼・耳・鼻・舌・身・意からなり、入出力装置であり表面意識です。
 外部データを色付けする個人の意志は、この中の「意」の部分で演算処理されます。つまり、「意」の煩悩により「識」から流入したデータを色付けし、その偏向したデータを「心」に記憶します。また、「識」を通じて外部を認識するとき、「心」にある偏向された基礎データにより「意」のフィルターをかけて認識します。実際にはこれらは同時に処理され、「今この瞬間」という「自意識」を成立させています。以上が阿頼耶識理論のあらましです。こうして、唯識論は変化する情報に関する認識論であり、今の認知理論を使っても表現できるという訳です。
 このように二つの哲学理論をまとめても、それらは仮説であり、それが私たちの生活にうまく適用できるかどうかは何とも言えません。予測をしたり、事象を説明したりできるかと言われると心もとない限りなのです。哲学の仮説として理屈をこねくり回すことと人生の様々な悩みに対応できるかはまるで異なる問題です。それを見事に示す例が『豊饒の海』です。そこでの輪廻転生と唯識論の物語は私たちの実際の生活を表現し、解釈するにはやはり不自然で不十分としか思えません。「死後どうなるかから生きている今を考える」という人は現在どれだけいるのでしょうか。その数が少なければ少ないほど、仏教は冠婚葬祭用の道具ということになってしまいます。では、現世だけで人生を理解できるかと問われると、そうだと割り切ることのできる人もまた少なく、いずれでもないのが案外人生なのかも知れません。