繰り返される「個人かグループか」というスタイルの問い

 ダーウィンの進化論は物理学と違って誰でもわかると思われがちですが、実はとても厄介な理論。1930年には総合説として改訂され、集団遺伝学が中核になり、その後生態学、発生学との更なる総合が模索され、個体、集団(=グループ)の関係が遺伝子レベルから考察されてきました。分子生物学社会生物学、進化発生学,進化経済学進化心理学など新しい分野が次々に研究され、人間社会の進化論的研究も進んできました。近代ヨーロッパ社会の基本にある自由、平等、人権といった概念が膨らみ、科学知識と科学技術に支えられた社会概念を大きく変えてきました。
 個人主義のもとでは科学技術も個人の幸福のためで、「医療は個々の人間を救うことが目的である」ことに反対する人はいません。この背後の図式は「個々の人間の救命が人類全体の存続につながる」というもので、個人を優先するか、集団を優先するか、といった判断をする必要はなく、個人の優先がそのまま集団の存続につながるという単純この上ないユートピア的な図式です。個人が豊かになれば国が豊かになり、その逆も成り立つという図式も同じものです。このように個人と集団の両方が両立する場合だけなら呑気に構えていていいのですが、明らかに両立しない場合も私たちの社会には存在しています。自己犠牲は時に集団のために自らの命を犠牲にすることです。それが家族に対してであれば、大した注目は浴びないのですが、国のためであれば称賛され、英雄にさえなります。
 人間は時には超利己主義者になり、別の時には家族のことを真剣に思い、稀ではあっても国を代表して自己犠牲を払いながら頑張るものです。人間は状況次第で主義主張など融通無碍に変えますし、むしろそれが人間の本性、要はいい加減なのです。それを基本にした個人と集団の関係を理解することが大切で、生物としての人間集団の生態を科学的に眺めると、人間についての人文科学的、社会科学的な常識と思われてきたこととは異なる知見が既に数多く得られています。例えば、医療の目的は、個人のためか集団のためかという二者択一ではなく、遺伝子を介して個人、家族、血縁、集団とつながった全体の存続のため、といった答えが考えられるのです。
 「あれか、これか」という問いに「あれか、これか」で択一的に答えるのではなく、問いの前提を見直すと「あれか、これか」という問いは成り立たないことになる、というのが私の結論です。