決定論と自由意志(determinism and free will)の軌跡 (3)

 ヒュームとカントが関わるのは心理的な決定論です。既に述べたホッブズと同様な考え方は、ロックやヒュームの経験論的な心理分析にもみられます。ロックによれば、自由な行為とは、意志によって選択される行為のことですが、意志は好みや欲求によって決定されます。ヒュームは一般に因果関係は現象の恒常的な継起に過ぎないと考えましたが、人間の自由意志による行動も、そのような恒常的な要因が見だされるものであり、これなしには道徳も成立しません。しかし、カントが自然法則と道徳法則を区別し、道徳的責任は同一条件のもとでの別な行為の可能性を予想することを指摘したように、道徳的領域における決定論と自由の問題はいっそうの困難を含むものとなっていきました。
 カントは物質と精神の二つの世界の共存と人間存在の二重性のテーゼに基づいて、自由を非決定性ではなく、道徳法則による自己決定性と理解して、自由と決定論との矛盾を解消しようとしました。
 カントはそれを『純粋理性批判』のなかで第三アンチノミーとして定式化します。テーゼは「自然法則に従う因果性が唯一の因果性ではなく、それ以外に自由の因果性を想定する必要がある」と主張し、アンチテーゼは「世界のすべての出来事は自然法則に従い、それゆえに自由は存在しない」と反論します。こうして自然科学の提供する世界像のなかに人間的自由をどのように位置づけることができるのか、あるいは両者の折り合いをどのようにつけるかという自由意志と決定論をめぐる問題のカント的な枠組みがつくられました。
<現代の決定論>
 カントの場合は、アンチテーゼを現象界に、テーゼを叡智界に振り分けるといった二世界論的な両立論であり、いわば「柔らかい決定論(soft determinism)」です。それに対して、人間の自由か世界の決定性のどちらかのみを肯定するのが普通で、世界の決定性を否定すれば、「自由意志説」となり、世界の決定性のみを肯定すれば「固い決定論(hard determinism)」になります。
 20世紀に入ると、決定論と自由意志との両立不可能性を唱える論者と両立可能性を唱える論者とが対立し、現在も論争が続けられています。
 主な両立不可能論には次のものがあります。1)自由意志擁護の立場に立ちながら、〈自然法則と過去の世界の状態との両方が現在の行為を含意する〉という論理的な関係に依拠して新たな論理的決定論を呈示し、両立可能論を論駁することによって決定論を斥けようとするのがヴァン・インヴァーゲンの「帰結論証」と呼ばれるものです。2)デカルト的非決定論をカルネアデス的な行為者内在原因の主張と組み合わせることによって、因果法則的な決定性を免れた第一原因としての自由意志の存在を主張し、人間の責任と決定論ばかりでなく、また単なる非決定と両立不可能性をも回避しようとするのが、チザムの「行為者因果説」です。
 これに対して両立可能論には次の二つが有名です。3)ヒューム的決定論を発展させ、自由意志を強制や拘束が排除された随意性に帰着させた上で、自由意志が前提する選択可能性については「条件法分析論証」に従って、「もしも人が他の仕方で行為することを選択したならば、他の仕方で行為したであろう」という意味に還元するのがエアーの議論です。4)デネットは、自由な選択の余地を、人間の認識が有限であることによって可能となる、主観的で相対的な「認識的可能性」に求めます。
 分類と列挙というつまらない話になりましたが、現在でも「自由と決定」に関して決定打がないということです。自由意志を認めなければ議論は単純でわかりやすいのですが、私たちは経験的に自由意志をもつと教えられ、実際そのように信じて生きています。通常は固く信じていればいいのですが、それを疑い出すとどこにどのように自由意志があるかうまく説明できなくなるのです。その意味で自由意志は心がもつ謎の一つなのです。