デカルトの方法的懐疑(doute méthodique, methodic doubt)を疑う

 方法的懐疑といえばデカルト哲学の出発点となる方法。デカルトは少しでも疑えるものはすべて偽りとみなし,疑うことができない絶対に確実なものが残るどうかを探ったことになっています。彼の疑いは懐疑論に至るのではなく,真理を得る手段、方法としての懐疑だと言われています。そのような目論見のもと、デカルトは世界のすべてを疑ったことになっています。
 私たちもよく疑心暗鬼になり、疑いをもちます。でも、方法的懐疑はそうした日々の懐疑とは違っています。日常的な懐疑はある特定の人や対象に対してのものですが、方法的懐疑は世界のすべてを疑い尽くすのです。方法的懐疑は文字通り一切に対する疑いということになっています。デカルトは自らその方法的懐疑を実行し、次のようにそのプロセスを表現しています。
 「感覚は疑わしい。感覚は欺くことがあるからだ。では、自分の内なる思考、たとえば幾何学の証明は真ではないか。それについても私たちは間違う。後になって証明が反駁されることもある。したがって、疑わしさを取り除くことはできない。夢もまた疑わしい。こう考えていくと、何ひとつ確実なことは残らないように見える。しかし、まさにそのように疑っている自分が存在すること、これは決して否定できない。」
 すべてを疑っても疑うことのできないものが残る。それは、「疑う」という認知行為であり、その行為の主体である自分。だから、「われ思う、ゆえにわれあり(Je pense, donc je suis.)」という命題が真なのだという訳です。天才デカルトにしては大いに怪しい推論ですが、これが方法的懐疑の結論です。
 「何かを疑う」ためには「疑う」ことを疑ったのでは疑えません。疑うためには「疑う」ことを恙なく実行しなければなりません。それが「疑うということは疑えない」というデカルトの主張ですが、これは特別なものでは決してありません。むしろ、論理的に当たり前なことで、切れ者デカルトでなくてもわかることです(デカルト自身はさらに踏み込んで、「疑う私」まで疑えないものとしました)。
 「英雄たちの選択」は史実をベースに英雄たちの心の中味を探るというNHKの番組。実に面白いのですが、デカルト風の心身関係が前提されています。英雄の精神状態が歴史を決めたという筋書きですから、心身の因果関係が前提されていて、それがないと歴史ロマンには到底なりません。もっと一般的に、推理小説は犯人の心理的葛藤が事件を引き起こすのに重要な役割を演じることによって面白くなるのですが、ここにもデカルト心身二元論が前提されています。つまり、心身の間に相互関係があり、だから、誰かの心が別の誰かに悪事を強いることができるという訳です。考えるまでもなく、近代小説は基本的にデカルト二元論を前提にしているのです。心身二元論をフル稼働させるそれら文学作品に比べれば、デカルトの方法的懐疑など実にささやかなフィクションに過ぎないとも言えるのです。
 さて、肝心の本論ですが、「すべてを疑ってみることは果たしてできるか」という疑問です。なんでも疑えとデカルトが言うのですから、この疑問は理不尽な疑問ではありません。では、疑うことができる疑問の数は一体どのくらいあるというのでしょうか。自然数と同じくらい疑問の数があったなら、それだけで私たちは一生かかってもそれらを一つ一つ疑うことができません。
 その上、疑うためには確かだというものを前提にして疑わなければなりません。確実なものを前提に疑わないと健全に疑うことはできません。疑いとその解答はイタチごっこなのです。Aを信じてBを疑う、Bを信じてCを疑う、Cを信じてAを疑う、といったことが始終起こるのです。これでは堂々巡りになるだけです。一挙にすべてを疑うことなど夢物語に過ぎません。
 デカルトはすべてを疑えると考えたのですが、これは上手の手から水が漏れたのかも知れません。すべてを疑うことができると素朴に認めてしまった方法的懐疑は、独断的な形而上学的な夢でしかありません。そんな夢を前提に哲学を再構築したデカルトは迂闊だったのかと言えば、デカルトはそんなことは百も承知で、私たちを巧みにだましたのではないでしょうか。つまり、私の見立てによれば、方法的懐疑とはデカルトの方便なのです。