ベルクソン『時間と自由』:量と質、そして自由

 哲学好きの人間には堪えられない「量、質、自由」といった概念の上手い組み合わせ。こんな組み合わせを取り上げるベルクソンは今でもとても人気のある哲学者で、そのフランス語の文章は実に秀逸。ベルクソンは数学がよくできた秀才なのに、数学を頑なに敵視し、「空間、量」と「時間、質」を対立させ、時間や質を空間や量として数学的に扱うことは誤りだと考えました。そして、その誤りを巧みに自由の問題につなげたのです。

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 デカルト的な延長をもつ外延的なものは、量として客観的に測定できるのに対して、内包的なものは感覚的なもので、その質は感じられるだけで、その量を測定することはできません。ベルクソンはこのような対立の図式をまず設定して議論の準備をします。ところで、質と言えばクオリア(qualia)。クオリアはこの種の議論に必ず顔を出します。例えば、同じソの音であっても、曲の中では様々な仕方で現れます。それは、それぞれのソが同じソではなく、他の音と繋がり合うことによって違う音の流れとして感じられるのです。この空間化できない、メロディーとしての時間の流れをベルクソンは「持続」と呼びます。空間化、等質化、記号化するということは、それぞれの過去の由来や痕跡を消すことです。しかし、メロディーのような持続は独特な由来や痕跡を残し続けるのです。
 第2章は数についての議論。空間化、等質化、記号化がどういうことなのかが明らかにされます。物事を数えることができるのは何故なのか。それは物事が単位として抽象化、等質化されているからです。それらは等質的、非連続的なので空間上に並べ、数えることができます。でも、持続する時間は本来、個々の事柄に応じて異なり、互いに融合する性質を持つので、空間化することができず、数えることができないのです。ベルクソンによれば、物理学は運動ではなく空間を記述しています。各時点の静止した空間を並べたものが、物理学で記述される「運動」という訳です。物理学が運動や時間を取り扱う際、時間からは持続を、運動からは「動き」を最初から取り除いておき、空間を無限に微積分することによって、運動に近似したものを記述しているのに過ぎなく、運動そのものを記述していない、というのがベルクソンの主張です。このように叙述すると、ベルクソンの考えがおかしいことはすぐわかるのですが、彼の文章を読んでいるとその独特のメロディとリズムに酔いしれ、賛同してしまうのです。
 第3章は自由についての議論。時間と空間を全く異なる概念と考えれば、自由について議論する際に決定論などは出てこないというのがベルクソンの考えです。つまり、時間と空間を同じように扱うので、自由についての議論は決定論に陥るということです。ある行為とそうではない行為を併置し、比較するというのは、行為を空間化している証拠に他なりません。これは、その行為がなされた後に初めて可能になるので、まさにその行為がなされている時には、このように空間化することはできないのです。自由な行為をした後に、その原因を探ることはできますが、それは決して行為の原因ではありません。それは行為の結果なのです。行為は「原因から結果」というように起こるのではなく、原因と結果が持続の中で溶け合って起こるのです。溶け合っていますから、過去の痕跡が残っていることになりますが、過去の痕跡とはそれまでの全体験のことです。つまり、自由な行為とは行為者の全歴史と同じことなのです。ベルクソンはこのように論じることによって「決定と自由」のジレンマを解決したと思ったのでしょうが、これでは余りに代償が大きいことがすぐにわかります。「選択」するということが人生のどこにも起こらないことになるのは明らかで、これは困ったことです。
 もしある人の行為の原因を探ろうとした場合、その人の全歴史を知らなければならなくなり、その人の全歴史を知るというのはその人そのものと同じなのです。その人の行為とその人そのものとは分割できず、そしてその時に人は自由なのです。無理に分けて考えようとすると、決定論に陥ってしまいます。しかし、ベルクソンは、人は日常生活の大半は決定論的なロボットとして生きている、と考えています。というのも、人格と行為、つまり原因と結果を分けて考える、つまり持続を空間化して考えることに慣れてしまっているからです。それでベルクソンは、自我を表層的なそれと根底的なそれの二つに分け、表層的な自我が時間を空間として捉えるのに対して、根底的な自我は持続の中に生きていると考えました。こうして、日常生活での表層的な自我は「決定と自由」のジレンマの中にいて、表層的な自我に救いはないことになります。
 ベルクソンは運動と空間を分け、物理学は空間の微積分をしてるだけだとしました。量はどれだけ積み重ねても決して質には変化しない、とベルクソンは主張し続けます。彼の生きた時代にはまだコンピューターがありませんでした。コンピューターの計算能力をもってすれば運動をほぼ完全に再現できます。また、人の行為のシミュレーションもずいぶん正確になり、人間に近いロボットがつくられています。このような状況では量とか質とかいう区別そのものがナンセンスです。
 「主観的な感覚経験は数学によって空間的に表現することはできず、運動のような感覚経験は持続として直観されなければならない」という言明は耳に心地よく響くのですが、それがほとんど意味をなさない主張であることは明らかです。感覚が私的言語のように経験を表現していても、その経験が主観的、独我論的で誰にも話せないのであれば、どのような意味を持っていると言うのでしょうか。
(『時間と自由』Henri-Louis Bergson、中村文郎訳、岩波文庫、2001)