「カオス」の起源は世界の始原

 「カオス理論」は20世紀後半に脚光を浴び、「初期状態への鋭敏性」、「バタフライ効果」といった概念が一般に流行しました。ある初期状態が与えられればその後の状態がすべて決定されるというのが決定論的なシステム。カオス理論が研究する「カオス」という複雑な振る舞いは、この決定論的なシステムがもつ特徴で、決定論的カオス(deterministic chaos)と呼ばれます。力学システムには線形と非線形とがあり、カオスが生じるには非線形性(nonlinearity)が必要です。また、初期状態への鋭敏性(同じシステムでも初期状態にごく僅かな差があれば、時間発展するとその差が大きくなり、予測ができなくなってしまうこと)があり、バタフライ効果(butterfly effect)と呼ばれています。
 その「カオス」の起源を探ってみましょう。ヘシオドスは『神統記(テオゴニア)』を著し、ギリシア神話の神々の系譜と世界の起源を体系的に整理しました。『仕事と日々』では、古代ギリシアの市民生活の起源や労働の義務などが記載されています。ホメロスは、大河の神オケアノスと海の女神テテュスによって世界が創造されたと詠い、ヘシオドスとは違った世界誕生の物語を述べていますが、『神統記』では、オケアノスとテテュスは、大地母神ガイアと天空の神ウラノスの子であるとされています。

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ギュスターヴ・モロー「ヘシオドスとミューズ」、ギュスターヴ・モロー美術館、このパリ郊外の美術館はモローの絵画だけで、彼の異様な世界に耽溺できる不思議空間)

 『神統記』にはこの世界の起源に関する記述があり、ヘシオドスは森羅万象の始まりは全てを飲み込む巨大な「カオス(=空隙、空虚)」であると記しています。カオス(chaos)のギリシア語での原義は「大きく口を開く」という意味ですが、広漠な何もない空虚な広がりや無限に広がり続ける空隙のようなものを指しています。一般的にカオスは「無秩序・混沌」と訳されますが、ヘシオドスの『神統記』では「空隙・空虚」の意味で、世界の始原としてカオスを説明しています。
 一定の空間的な広がりの中に、乱雑に構成要素が散らばっているという「無秩序」の意味で「カオス」を用いるようになるのは、ラテン文学黄金期のオヴィディウス(B.C.43-A.D.17)が活躍した古代ローマ帝国時代です。オヴィディウスはローマの帝政初期の詩人で、代表作『変身物語』の中で無秩序や混沌という世界の最も早い段階にあったのは「カオス」であり、カオスはギリシアの神々よりも前にこの世界に存在していたと説明します。ギリシア神話の世界生成の物語は、キリスト教ユダヤ教聖典である旧約聖書に記述されている『創世記』の天地創造とは異なり、全能の神が意識的に世界を創造したわけではありません。ギリシアの天地生成は飽くまで自然発生的に起こったもので、世界の始まりの時期にはただ広漠無辺な空隙(カオス)だけがあったのです。 万物の起源であるカオス(空隙)から、初めに非人格的な三つの神が生み出されます。それは、大地の神ガイア、冥界の神タルタロス、愛欲(生殖)の神エロスの三つの神で、この段階では人格神ではありませんでした。