心身二元新論:試論(1)

(はじめに) 
 心身二元論と言えば誰もが思い起こすのがデカルト心身二元論。「心と身体は異なる実体で、両者の間には密接で直接的な相互作用がある」というのがその要旨で、多くの人には当たり前の事実(?)。この時の心身の相互作用とは「原因と結果からなる因果作用」であり、ある心的状態がある身体状態を引き起こし、また逆にある身体状態がある心的状態を引き起こすというような心身の間の相互の因果系列のことです。そこで問われることになったのは、心的状態と身体状態の間にある因果関係はどのようなものかということで、長い議論の末、終にはこの問題は解決できそうもないということになり、それがデカルト心身二元論の致命傷と見做されることになりました。そして、この致命傷から彼の二元論は誤った主張に違いないと烙印を押されることになったのです。
 ここではこの伝統的な心身の因果関係の他に、心身の間の別の関係を取り上げてみます。それは、広義の因果的な関係と呼べないことはありませんが、古典物理学の法則に従うような連続的な状態変化ではなく、歴史的な進化過程と呼んでしかるべき過程です。また、私たちが「何かを知る」という認識過程もここに含めてみましょう。でも、心と身体がどのような因果的関係をもつかを知覚レベルで意識することなど覚束なく、たいていの場合その関係は判然としません。そのためか、スポーツ選手は心と身体の関係を訓練、練習を通じて意識化、可感化しようと大変な努力をします。それは心身関係がある程度は学習されるものであることを見事に物語っています。心身関係に肉薄しようとすれば科学的に身体の運動変化を知ることと並んで、意志やその実現に向けての心的な操作に精通するために、適切な訓練や学習をしなければならないと思われています。これは宗教体験を考えれば一層明白です。釈迦の悟りの追体験としての禅の修行、一心不乱に念仏三昧にふけることなど,その典型例ではないでしょうか。
 心身関係は生物進化の結果として次第にできあがってきたシステムであり、私たちが自らの進化の経緯をほとんど知らないのと同じように、その進化の一部である心身関係についても私たちはほとんど知りません。にもかかわらず、常識は心身の関係を直観的に知っていると信じ込んできました。進化論は19世紀にやっと理論化され、少しずつ生物進化の具体的な仕組みや過程が判明し出してきました。また、脳神経系がどのようなものかわかり出すのは20世紀に入ってからですが、心的状態の変化と脳状態の変化の間の相関的な変化に関心が高まり、今では膨大な知見が収集されています。
 進化過程に関しては必要なことだけに限定し、その他は別の機会に譲ることにします。「気づく、意識する、知る、行為する」という(認識的な)過程を「介入」という観点から捉え、デカルトとは別の議論を展開し、デカルト心身二元論がその議論からの一つの帰結に過ぎないことを導き出してみましょう。(意識が物理的な世界とは一線を画しているのと同じように、「気づき」は物理的な現象であるのは確かですが、いつどこでどのように気づきが起こるかは物理的にはわかりません。経験がすべて物理的な出来事であるなら、気づきも物理的出来事になり、コイン投げと同じ現象として考えることができます。実際、物理一元論に従えば、介入も物理現象として予測できることになります。そして、物理学自体が物理現象であることが最終的に帰結することになります。誰もこの帰結は認めないでしょう。すなわち、その前提である気づきの物理化が気づきをすべて物理的な現象だと言い切ることではありません。物理化できないものがあるということは一元論が成り立たないということです。)
デカルト的な心身二元論の位置)
 まずはデカルト心身二元論を振り返っておきましょう。彼の心身二元論は子供でも簡単にわかる単純な仕組みになっていて、心的なものと物理的なものの間に因果関係があるという説明は私たちの生活世界の実像を見事に捉えていると思われてきました。心的なものと物理的なものの間の因果関係は自然で疑う余地がなく、心をもつ私たちの思考や行動を説明する当たり前の仕組みとして受け入れられてきました。物心ついた時から私たちは心身の相互関係の存在を正しいものと教えられ、それを使い、それに頼って生活してきました。そのため、言葉を使わないで考えたり、振る舞ったりできないように、心身の相互作用を前提せずに人間や社会のことを考えることはできないと信じ込んできました。皮肉なことに、デカルトの時代以上に、心身の因果関係を細部にわたって追求するのが現代です。心身の関係に一層敏感になればなるほど、私たちはデカルト的な二元論に支配され続けていることを強く意識するようになります。(心の病、精神的なものへの配慮は社会の中で認められ、市民権をもつようになったのが20世紀でした。「心」は実体でなくなっても社会の中では「人権」と同等な仕方で承認されてきました。)
 でも、少々冷静になって考え始めると、心身の相互作用という考えは、その見かけと違って、これほどわかりにくいものはないことがわかってきます。「意志することが行為を実行する原因である」という謂い回しに不自然な点は何もありません。例えば、殺人事件の解決には犯人の動機が大きな役割を演じます。にもかかわらず、誰も意志や動機から行為に至る因果系列を完全に特定することなどできません。それでもこの謂い回しが誤っているとは思われていません(殺人の動機と殺人の実行の間の連続的な因果系列が特定できなくても、殺人の原因として何ら不都合はないのです)。デカルト的な心身二元論が背後でお題目のようにこの考えを後押ししてきたように思われてなりません。細部がわからず、細部を考えれば破綻をきたすことがわかっていながら、当たり前の真理のごとく受け入れられる心身二元論は、大昔からの心についての宗教的伝統や倫理・道徳に助けられていたとはいえ、現在の私たちとその社会を実効支配し続けています。法律も経済もその基本には心身二元論が仮定されています。通常は正しいことが揺るぎない命題が土台に置かれるのが筋なのですが、心身二元論はなぜか土台に置かれて私たちの生活世界が成り立っているのです。これこそ謎の中の謎と言ってもいいのではないでしょうか。これは謎ではなく、少し改訂すればそれで構わない、というのが私がこれから主張する心身二元新論です。その前に、一つ考えておくことがあります。