心身二元新論:試論(2)

(なぜ私たちはデカルト的二元論に騙されてしまうのか)
 心身の間に法則的、あるいは非法則的な因果関係があることはどのような意味で正しいと断じることができるのでしょうか。心身の関係は歴史的に次第につくられてきた事実であり、ボールが落体の法則に従うのとは明らかに異なっています。落体の法則それ自体は進化しません。心身関係とは、偶然的な介入に自然選択が働き、それが蓄積され、心身関係が出現し、それが適応として進化し、いつかその生物種が絶滅すると、それと共に心身関係も消滅する、ということでしかありません。つまり、心身関係の進化は必然的な事実ではなく、偶然的なものを常に含んだ暫定的な規則性をもつ事実に過ぎないのです。生物種が世界に生まれ、死んでいくことが進化の要因を組み合わせて説明されるのと同じように、心身二元論が世界に生まれ、死んでいくことが進化論の中で説明されるのです。心身の因果関係は進化の結果、つまり適応であり、心身の因果関係は進化し、変化し続けています。*

* リンゴが落下するのは重力の法則に従い、その法則が進化することはありませんが、心身関係は物理法則ではなく、進化の結果に過ぎないのです。心身の因果関係は物理法則に従いません。物理法則に従う、物理学を使って説明できる、というのは脳の中の過程であって心身の関係ではありません。心身の関係は進化の結果ですが、その身体的な過程は物理法則に従うのです。


 心身の二元論に私たちの気持ちが自然に傾いてしまう理由は何でしょうか。私たちは、心的状態が物理状態に働きかけ、結果として別の物理状態を生み出すと信じ、行為の原因として自由意志を考え、その意志は心のもつ大切な働きだと思っています。私たちは自らの心を使ってものに働きかけ、ものを変え、ものを手に入れることができます(と思っています)。その中には他人に働きかけ、その人の行動、その人の心に影響を与えることも含まれます。心が心に働きかけることもままあるとしても、ほとんどはものに働きかける場合です。芸術でさえ、芸術家の心はまずものに働きかけ、絵画や音楽はまずものを通じて、作品を生み出し、最後に人々の心に訴えるのです。心がものに働きかけることができる理由としてデカルト二元論以外の理屈が模索されてきました。例えば、心的状態はその下に物理的な脳状態があり、脳状態に付随するのが心的状態であり、それゆえに心身の間には一定の付随的な相関関係があるという結論めいたものを生み出してきました。心を心だけで説明するのではなく、心と身体との関係で心を考えることの背景には「経験主義のトラウマ(なんでも経験に翻訳することが至上命令)」と呼ぶべきものが控えています。
 今や経験主義に反対する人はほんの一握りに過ぎません。経験主義を前提にして心の振舞いを理解しようとすると、知覚できるデータが不可欠で、直接に経験できない心的状態や心的能力を直接経験できる脳や身体の状態や能力を使って理解しなければなりません。これが経験主義のトラウマです。さらに、この経験主義を20世紀により突き詰め、先鋭化させたものが物理主義や自然主義と呼ばれています。それによれば、経験主義は経験科学によって具体化され、経験科学の中で最も信頼できる物理学によって世界を知ることが最善の知り方であるということになります。すると、物理主義や自然主義を信じるなら、心や精神は(デカルトによれば)物理的でない実体であることから、心を知ることは最善の知り方では原理的に知ることができないことになります。これは実に不都合な結論で、それゆえ、心はお化けのようなもので、心的状態が存在したとしても脳という物理的なものの状態に付随する仕方でしか存在できない、ということになります。実体としての心が否定されるのですから、このような結論が当然ということになります。
 さらに、実証主義や確証、検証といった知識の確認に重点を置く考えや概念(検証主義)が重視されるようになると、形而上学や哲学の抽象的概念とは異なり、情報、データ、検証、測定、観測といった知識習得の装置や技術が不可欠になり、それが心にも実証的に接するべきであるという態度を醸成することになりました。これは心にとってすこぶる不都合なことです。「眼に見える心」は「丸い三角形」のように形容矛盾だと受け取られてきた長い伝統があります。そのため、見えない心は経験主義の後継者となった実証主義、さらには物理主義や自然主義の中では無意味な形而上学的概念というレッテルを張られることになりました。そして、「こころ」は誤った時代遅れの概念に過ぎないと考えられるようになってきたのです。
 このような状況で、心身相互作用の二元論は、意外にも物理主義や自然主義に合う側面をもっていました。心が身体や脳とは異なる実体という規定は実のところどうでもよいものでした。なぜなら、アリストテレス由来の実体概念は時代遅れで無用な概念であることが言わずもがなのことになっていて、心身の身も実体であると誰も既に信じていなかったからです。それに対して、心と身体が相互作用するなら、具体的にどのような相互作用が認められるのか、これは科学的な問いとして満更でもないものでした。でも、冷静になればすぐにわかるように、心と身体の間の因果関係は魔訶不可思議で偶然的な因果関係風のもので、それゆえ、未だに明解な答えのないものです。科学的になればなるほど因果関係を特定しなくてはならなくなり、デカルト的二元論は科学的なターゲットにされ、ますます謎めいたものになってしまいました。
 以上のことが、私たちがデカルト的二元論にそれなりの魅力を感じ、自らをその二元論の中で考えることになる理由です。「心は身体に付随する」という現代風の心身関係は、物理主義をより重視する仕方で心身の関係を考えようとするもので、実質的には二元論と大差ないものです。心身の関係をつけること、心を物理過程に関連させて考えることが習い性となって、心だけ脳だけを独立に、自律的に考えることがすっかり忘れ去られてしまったことをここでしっかり確認しておきましょう。二つの間の関係より、二つそれぞれがどのように理解できるかをまず確定し、その後に必要なら相互の関係を考えればよい、このような態度で問題を捉え直してみましょう。心身の間に想定できる因果関係はどのような関係かといった問いは暫く忘れるべきなのです。