心身二元新論:試論(4)

 今日は少々カジュアルに、心がどんな風に醸成されてきたのか想像してみましょう。
 心はなぜ必要なのでしょうか。心のない人(最近は「ゾンビ」と呼ぶ習わし)がいたら、治療、養護、介護が大変で、社会負担が増えるでしょうね。健全な心をもつ人ばかりなら、その集団も健全で、安心できるコミュニティになると誰も思うはずです。心をもつこと、それも善い心をもつこと、さらには健康な身体をもつことが社会にとって重要だということになれば、心身二元論は社会に不可欠ということになります。つまり、心身二元論は私たち自身がつくり、守ってきたことになります。昔から善い心の醸成が洋の東西を問わず行われてきた理由はこのようなことではないでしょうか。
 人は言わずと知れた社会的な動物、それを守るために心が進化してきたと考えるのは理屈に合っています。それは生物進化の結果というだけでなく、文化進化の結果とも考えることができます。心は民族、歴史、文化によって微妙に異なる特徴づけを与えられながらも、基本的に心身二元論の枠組で捉えられてきたのです。それが最もよくわかるのは神話や宗教です。神話も宗教も人が人をどのように理解してきたかを素直に語ってくれます。どの宗教も心を必須の構成要素にしています。「心なくして宗教なし」と言い切っても構わないほどではないでしょうか。人に心や精神、霊魂や魂がないのだとすれば、宗教自体が存在しなくなるほどに、心的なものが宗教では重要な役割を果たしています。ですから、ゾンビは無神論者のはずです。今私たちが躍起になってつくろうとしている人型のロボットは必ずや信仰心を植えつけられます。それは信仰心をもつ人とのコミュニケーションには不可欠だからです。
 社会進化論、社会生物学進化心理学進化経済学、進化生態学等から、人が心をもち、それを使って情報処理し、情報の交換を行い、情報を操作しながら社会をつくって生きることがアカデミックに研究されています。確かに心の存在は物理学的にうまく説明できないのですが、心が人が生きる上での重要な役割を果たしていることは否定できません。正体は不明でも、役に立つとなったら、私たちは関心を寄せ、利用しようとします。ですから、心は金儲けのできる対象になってきたのです。心は脳や身体と同じように生物個体の生命維持に不可欠だけでなく、詐欺の対象そのものとなってきました。

(心の教育の二元論)
 人は心を教育によってつくろうとしてきました。それが教育の使命であると考える人は結構多いはずです。学校教育だけでなく、芸事、スポーツ、技術の習得についても同様で、心身の統合された動きや技が求められてきました。心を鍛錬し、ストレスに対抗できるようにすることなど、一流スポーツ選手には必須の事柄であり、心の鍛錬学習と言ってもよいでしょう。
 心身の相関がスポーツほどは求められなくても、心の学習理論には心身二元論が想定されているのが普通です。心を鍛えるために身体を鍛えることがその逆の場合と同じように求められてきました。
(進化的な適応の二元論)
私たちは世界の中で生きていますが、その生き方を「介入する(intervening)」と呼ぶことにしましょう。行為するために介入する、知るために介入することは、介入からスタートして、行為の結果や知ったことを蓄え、それらをさらに使うことによって、世界の中で出来事や知識が生まれます。生きることは介入することであり、介入を止めることは死を意味します。行為し知ることによって、さらに次の介入が促される、このサイクルが循環し、次第に行為や認識のパターンが形成されていきます。そして、これが因果関係として整理され、心身二元論として結実することになります。

 何かに誘発され、あるいは突然に「チョコレートが食べたい」という心的状態になったとします。あるいは、「これは何か」と疑問をもち、好奇心からそれを知りたいと思ったとします。そこから、チョコレートを実際に食べる、それはトラではなくヒョウだとわかる、ということが結果します。実際にチョコレートを食べたことが意識され、記憶に残る、あるいは、ヒョウだとわかったことが意識され、記憶に残ります。そのようなことがなければ、因果過程の結果が定まりません。研究者には結果が主体に意識されなくても一向に構わないのですが、介入する、行為の主体にとっては因果過程が意識されるものからスタートし、意識されるもので終わらないと完結されないのです。
 学習し、訓練することを通じて意志や欲求が具体的な行動に移され、結果を生むことができるようになっていきます。学習や訓練は一定のサイクルをつくり、意志や欲求がしっかり機能するようにするものです。したがって、出来上がるサイクルは一回限りの因果関係などではなく、パターン化された系列であり、規則性を示す法則によって説明できるものです。自然法則が最初から存在するパターンを記述しているのに対し、進化の法則は適応として獲得されたパターンを記述しています。それが証拠に、適応は過去の地球にはなかったパターンであり、未来にはなくなるパターンなのです(つまり、サイクルをもつプログラムになっていて、そのプログラムは進化する)。
 このように見てくると、心身二元論は哲学の理論などではなく、人とその社会が上手く生きるための方便のようなものだということになります。