心身二元新論:試論(5)

 前回はカジュアルな書き方になりました。誤解を恐れず、それを続けてみましょう。いわゆる心身二元論は哲学的でない哲学理論だと言いたかったのが前回です。いわば、偽物の哲学理論ということです。ですから、その時の私たちの科学的知識や常識に応じて、心身の関係は自由に変化し、ある過程が承認され、別の過程が否定され、それが不規則に変化することが心身二元論ではむしろ当たり前のことなのです。科学という枠組みの中で議論できないのが心身二元論だと思って構いません。胡散臭いどころか、実にやくざで支離滅裂な考えだと糾弾されても仕方がない面をもっています。それを印象づける、ずっと上品な表現を挙げてみましょう。

 偶然的な介入による選択的な過程とその蓄積による結果が自然選択(natural selection)
 偶然的な介入による確率的な過程とその蓄積による結果が遺伝的浮動(random genetic drift)

(自然選択と遺伝的浮動は進化の総合説の中では主要な進化要因と見做されています。でも、「選択的な過程」と「偶然的な過程」の違いは実に微妙で、時には区別がつきません。)

 少なくとも上の二つの過程を含む進化の過程は偶然を含むのですが、できあがった心身の間の関係は一定の時間範囲の中では決定論的な関係になっています。偶然的な歴史と実際の決定論的過程の違いは歴然としています。二つが両立しているというのは一途で正直な物理学者には解せないことかも知れません。肝心な点は、決定論的な心身の相互関係はその歴史的な構成から、いつ偶然的な変化が介入してもおかしくないということです。
 古典的世界観は決定論的世界観と言われてきました。ラプラスの悪魔はある時点での世界の状態がわかれば、未来永劫すべてのことが予測できると豪語し、それが決定論的世界観の表明と考えられてきました。今ではラプラスの悪魔は嘘つきということになっていて、古典的な世界も決定論的でないということをほとんどの人が認めています。世界のある瞬間の状態を完璧に情報化し、それを知ることは法外もなく困難なことというより、根本的にできないことです。「瞬間的な状態など測定できないし、すべては近似になり、近似では予測などできない」というのが実際の姿で、そのためラプラスの悪魔は夢の企みに過ぎないのです。にもかかわらず、その近似は理論的な障壁ではないと夢を見続ける人は少なくなかったのです。それゆえ、確定した状態とその法則に従った変化という世界像は根強く私たちの心に留まってきたのです。でも、それは誤った哲学の夢であって、正しい夢ではありません。では、まともな夢とは一体何なのでしょうか。
 そこで、ちょっと寄り道して、ポアンカレの回帰定理について考えてみましょう。その定理は、アンリ・ポアンカレ(H.Poincaré,1854-1912)により証明された解析力学上の定理(Poincaré's recurrence theorem)です。ポアンカレ再帰定理とも呼ばれます。ポアンカレは三体問題の研究の中でこの定理を見つけ、1890年に発表しました。
 解析力学では力学系のひとつの状態は位相空間(質点の位置と運動量を座標とする空間)上の点で表され、その点の近傍はその状態に近い状態の集まりを表し、回帰定理はこの位相空間上の力学系に関する定理です。簡単には、「力学系は、ある種の条件が満たされれば、その任意の初期状態に有限時間内にほぼ回帰する」、「ほとんどすべての軌道が出発点の任意の近傍に無限回もどってくる」、「与えられた初期条件に、いくらでも近づき、かつそれを何回でも繰返すことができる」と表現されます。 ここである条件、つまり回帰定理の成り立つ条件とは、広く一般的にいえば力学系が保測的(位相空間内の点集合の体積が保存されること)で、その軌道が有限領域に限られていることです。例えば、ニュートン力学の成り立つ系で等エネルギー面を動く軌道(エネルギーが保存される状態の軌道)では回帰定理が成り立ちます。回帰定理が孤立系の現象の厳密な繰り返しを示したと解釈する人もいます。でも、この解釈には二つの意味での誤解があります。第一に、力学系は初期状態の近傍に戻るだけであり、初期状態そのものに戻るとは限りません。第二に、近傍に戻る時刻 (時点)の分布は特別な場合を除けば不規則であり、一定の周期をもちません。ポアンカレが示したように多体問題の解の軌道はカオスになることが多く、その場合は運動が周期的繰り返しにはなりません。
 自然の変化がどのようなものかを考える上で、ポアンカレの回帰定理と自然選択は大変異なっているにも関わらず、いずれも自然の法則として通用してきました。
 さて、本筋に戻りましょう。「心」が偶然を含む進化の過程を通じてつくられ、決定論的な心身関係として機能していることから、「心」の進化と決定論的働きを両立させても、それで納得できたことにはなりません。「人に心がある」という言明こそ歴史上最大の嘘ではないかと疑ってみるのもいいかも知れません。心身二元論に入る手前の「心」の存在に関する基本的な疑問です。嘘というのが言い過ぎだとすれば、証明できない仮説と言い換えてもいいでしょう。どんな神話にも心をもった人が当たり前のように登場します。ですから、心のない人がいたら、その人は異常、変態、病気といった烙印が押されてきました。人が人に対してつくってきた仮説ですから、本当に始末が悪いのです。人に心がないと仮定すれば、不都合なことが山ほど出てくることは火を見るより明らかです。どうも私たちは全員で心の存在を仮定してきたようで、正に皆で仮定すれば何も怖くないということなのでしょう。誰もがほぼ無意識的に心の存在を騙ってきた共同正犯ということになります。
 心のない世界を想像しようとしてもなかなかできません。無理して想像しても、それは原始地球か火星のような惑星しか思い浮かばず、殺伐とした世界になるのではないでしょうか。心のない世界は実に退屈で、悲しい世界です。どんな自然でも心が関与しなければ、その自然はただの木偶の坊に過ぎず、風景や景色はどこにもないことになります。「知る、認識する、欲する、感情をもつ」といったものがなければ認識論も心理学もないことになります。