心身二元新論:試論(6)

 心も身体も共に考えられているよりずっと変幻自在で、時には心は身体以上に物理的で、また別の時には身体は霊魂と寸分たがわず、といったことが始終起こるのが私たちの生活世界です。そこで、心身の関係をもっと具体的に見直してみましょう。見直しのキーワードは「トークン(token)」と「情報(information)」です。
 情報は改めて説明する必要はないでしょうが、トークンとは何でしょうか。個々の人間や机が人間のトークン、机のトークンで、私たちが見たり触ったりできる個別的で物理的な対象がトークンです。一般名詞や固有名詞が指示する個々の対象がトークンです。
 個々の生き物を「どのような生物種も自然選択の結果」と能書き風に一括説明できても、個別の進化の経緯を個々の出来事トークンの系列として特定することはできません。爬虫類から鳥類が進化したと幾つかの状況証拠から推測できても、その進化が実際に起こった過程はまるでわかっていません。そのため、爬虫類のある個体が変異を起こし、その何代目かの子孫が最初の鳥類として生まれた、といった歴史物語は夢のまた夢ということになります。
 トークンとしての個々の実数とその名前について考えてみよう。個々の実数は存在するのですが、それが何という実数か言うことができない実数がほとんどです。私たちが個別に呼ぶことができる実数はたかが知れていて、ほとんどは名前をつけることさえままなりません。実数の名前は数えることができますが、実数そのものは数えることができないほどたくさんあるからです。歴史の事実もそれに似たところがあります。事実の積み重ねはあったはずですが、個々の事実はわからないといったことは珍しいことではありません。
 意識できる心的レベルの状態の系列は意識する私にとって基本的にトークンの系列です。私たちの思考や意識が物語的になっている理由はそこにあります。ヘラクレイトス的世界に私たちは住んでいて、主体的に考える、意識することが実はトークンとして意識や思考を捉えているからです。「私」が意識されて、「私」が何かを考える、「私」の心で考えるという謂い回しに登場する「私」は、生きていて、今実際に考えている生身の私で、その私は諸行無常の世界で生きています。いつか死ぬ私はトークンであり、概念ではありません。何かを考える時には概念、つまりタイプを使いますが、それらを要素や部品にした私の思考や意識は、今を生きている私の主体的な思考や意識なのです。科学的な思考がタイプに見えることに騙されてはいけません。科学的な思考とは個々の科学者の個々の思考だとプラグマティックに見直せば、科学的思考さえも科学者個人のもつ思考であり、それはトークンとしての思考なのです。
 でも、脳レベルの状態の系列ということになると、いつもタイプレベルの系列が念頭に置かれます。ある脳科学者のある脳状態の系列ではなく、一般的な脳状態の系列です(「私のこの机」ではなく、「机というもの」が問題になります)。確かに、私の脳だけ限定的に研究することもでき、その場合はトークンレベルの系列が考えられますが、基礎的な科学になればなるほど、それは稀になります。医療を除けば、私の原子を研究する人は皆無で、誰もが原子を研究するのです。「私の原子」や「私の脳状態の歴史的経緯」は問題にできず、考えにくいのですが、「心的状態の歴史的展開」や「人類の歴史」は議論が容易で、むしろ考えやすいのです。
 「私」と「心」の組み合わせはデカルト的な匂いに満ちていますが、心が意識であり、意識するのが私であれば、心と私は実に親密に結びついています。タイプの変化が物理学的な規則的変化を、トークンの変化が「一寸先は闇」のような変化を表していて、状態変化と歴史変化の際立った違いの根本に存在しています。
 ここからは情報について考えてみましょう。生き物が環境に介入することによって情報が産み出され、生き物はその情報を使って生存・生殖します。感覚器官は生きる手段、装置であり、環境の中から情報を取り出すために進化してきました。個々の知識はタイプ、個々の情報はトークンというのが私流の知識と情報の最終的な区別です。
 情報概念は多様です。存在論的に情報を捉えれば、世界は情報からつくられ、情報は存在を生み出しています。認識論的には、情報は知識の原材料になっています。個々の情報はトークンで、生き物に対して重要な意味をもっています。生き物は生きるために情報に頼り、それを使います。人間は情報も知識も同じように使いこなしますが、他の生き物が扱うのは基本的に情報です。情報を巧みに活用し、よどみなく使うには、情報の内容を純粋に把握することが必要となります。また、情報処理のプロセスなど、内容を把握するための装置はできるだけ自動化されていて、意識する必要がないことが求められます。ゆっくり反省などしていたのでは死にかねません。
 生き物は生きる環境を情報化しています。生き物がいなければ情報もありません。情報は生き物の介入によって生まれ、生き物はそれを物語として受け取ります。物語がなければ情報など無意味です。原始的な生き物ではすべてがトークンとして現れています。トークンとしての対象の存在と出来事の生起は物語に他なりません。物語で語られるものは具体的なトークンです。「物語」は言語が生まれてからの産物ですが、言語のない時代について語れるのもやはり物語なのです。物語は筋立て、ストーリーが命であると言われますが、それが重要なのは、登場人物が何をどう考え、振る舞うかがわからない中で未来の予測に一喜一憂するところに面白さがあるからです。推理小説の面白さは正にここにあります。生々した世界はトークンからなり、物語によって特定のストーリーが展開される世界なのです。
 物語の筋立て、ストーリーについて暫し考えてみよう。私の人生は一つで、私は複数の人生を同時に生きてはいません。幸いまだ生きていますが、誕生から現在までの私の歩みは私という一個の個体の連続的な変化だと私は思っています。これは私だけでなく誰も同じ思いでしょう。私と子供たちの人生は違う人生であり、法律上も違っています。私の人生と同じように物語の筋立てもただ一つのドラマとして描かれます。私や『二郎物語』を脚色する様々な道具立ては知識や事実のごったまぜですが、描かれる私や二郎は概念的な対象ではなく、特定の個人です。個人はトークンとして存在するゆえに個人なのです。大切なのは個人が物理的にトークンだというだけでなく、個人が社会的、法律的、そして規約的にもトークンだということです。人間でない犬や猫、そして登場人物の二郎は法律的に個人ではありません。でも、愛称をもつペットの犬や猫はトークンであり、二郎は読者の心の中で健気な主人公としてトークンです。生身の人間でない小説の主人公を特定の個人として読むため、読者は主人公の人生に感動するのです。それを叙述する作家は言語と一般的な知識を駆使してトークンである主人公の姿を描くことに腐心します。これは私自身についても同じで、私は自らを一般的な知識を使って日本語で考えています。二郎と私はほぼ同じ仕方で把握され、理解されていると言ってもいいでしょう。インターネットを通じてしか私を知らない人たちには私と二郎は同じような存在で、二人とも個人というトークンなのです。
 物語を通じて描かれるものはトークンであり、そのトークンを通じて読者は一般的な主張を読み取るのです。その主張を直接に言うと哲学のようにつまらない内容になるためか、具体的なトークンの生々しいストーリー展開が真理を開陳してくれるという訳です。物語はトークンであることを示す工夫です。一般法則とは逆の個別の存在や出来事は、運動法則に従うなどという能天気な説明では描けません。トークンを描くには物語が必要で、その展開の面白さが個別のものの役割を際立たせることになるのです。