心身二元新論:試論(7)

 科学主義者には還元主義は心強い味方なのですが、それはとても不思議な性質をもっています。「私を分解していけば、最終的に原子にまで至ることができる」という還元主義の主張は、「原子だけでは私の個性を説明することができない」という常識とは相性がよくありません。自然科学を信じる私たちは、いずれも正しい文だと思っています。でも、どのような意味で二つの文は正しいのでしょうか。
 物語の世界と対照をなすのが科学理論が描く世界です。個別的なストーリーしか描けないトークン中心の物語に比べると、科学理論はその改良型と呼んでもよいもので、ストーリーの束を一括して扱うことができます。どのストーリーにも共通する、どのストーリーも違反することができないことが理論によって主張されています。科学理論に登場する概念=タイプは存在論的解釈を与えられ、それらからなる安定した構造的な世界がつくられます。どのような世界であれ、そしてそこで展開される出来事がどのようなストーリーをもとうと、それらが満たさなければならない事柄が基礎的な物理理論となっているのです。さらに、局所的な領域の局所的な現象(特別領域の特別な性質や現象)を扱う理論も様々につくられてきました。
 人間もトークンを感覚し、それを使って生きる生き物の一つです。人間はその感覚内容を言語を使って表現し、それが物語として人々の心を捉えました。次に、物語の形式から理論の形式へと大きな転回が起こります。理論は物語の内容を一括して説明するものです。説明ではなく個別的な記述がなければトークンとしての歴史はつくれません。でも、不思議なことに言葉を使う私たちはトークンそのものを言葉では語れないという根本的な制約、限界を知っています。記号のもつ根本的な性質は「記号は何かの代わり、代表、偽物である」ことですが、だからこそ記号は何かを表現できるという働きをもてるのです。トークンそのものではなく、言語を使ってトークンを表現するのが私たち人間のやり方です。ここに感覚経験と言語が介在する経験の違いを見て取ることができます。感覚経験はトークンの経験だけです。どれほど知識や記憶が関与し、それによって感覚内容が左右されることがあっても、三角形の概念を知覚することは決してなく、三角形めいた、鉛筆で描かれた線図を知覚するだけなのです。その知覚表象は「三角形のトークン」という形容矛盾のような表象なのです。この文は感覚的な経験をどのように概念化するかの例と考えることができます。
 典型的なトークンはクオリアクオリアを実際に経験しないで、それが何かを知ることができるでしょうか。ジャクソンの知識論証での問いはこの問いでした。赤のクオリアは言葉では「赤の感じ」としか表現できません。1の次の実数を「1より大きい実数の中で一番小さい実数」と表現するしかないように、赤のクオリアは言葉では間接的にしか表現できません。そのため、赤を知覚する経験によって赤のクオリアを直接に把握できると期待してしまうのです。
 では、1の次の実数を経験できるでしょうか。実数を知覚することはできないため、知覚以外の経験となりますが、今の私たちにできる経験は「1の次の実数が存在する」という命題の証明しかなく、その実数を直観できる人がたとえいたとしても、それを実証することはできません。では、赤のクオリアを経験できるとしたなら、その経験はどのような仕方で確証できるのでしょうか。
 科学的な実験や観測はコントロールされた経験であり、測定によるデータを使って予測が正しいかどうか確認するのがその通常の役割です。したがって、赤のクオリアも実験や観測によってその性質を確証するということになります。でも、この最後の文が何を言っているか考えると、奇妙なことになっていることに気づくはずです。すると、赤のクオリアは科学が扱うことのできない「生の感覚、生の感じ」であるという最初の理解は、それが科学的に確証できないものだと白状しているだけということになるのでしょうか。これはミスリーディングな結論で、正しくはクオリアは経験だと認めても、その経験をどのような実験や観測を使って捉え直すことができるかを私たちは知らない、と言うべきなのでしょう。
 私たちの世界への介入はラプラスの悪魔と違って、世界全体を一挙に相手にすることなどできません。分をわきまえ、小さな物理系に焦点を絞り、特定の物理量の時間的な変化を追うといったことしか対象にできません。それゆえ、相当多くの仮定を置いたうえでの話になります。何をどのように仮定して議論を進めるかが介入であり、介入によって物理系が決まり、その物理系の未来の姿が決まっていきます。介入するという決断をする、決めるのは通常は私ですが、強いられる場合も多々あります。世界に介入し、何かを知るのと介入によって世界全体を知るのは随分と違っています。いつ、どこで、どのように、何に介入するかは私が知る限り偶然としか言いようがありません。私は誰かに命じられるわけでも、まったく気紛れにでもなく、通常はある目的をもって介入します。そして、私たちは断片的な物理系をかき集めると、ジグソーパズルのように断片が整合的に並べられ、最終的には世界全体ができあがると思い込んでいるかのようにラプラスの悪魔の目論見を想像するのです。でも、実情はそれほど単純ではなく、穴の方が圧倒的に多いジグソーパズルで、95%以上は穴という欠陥パズルというのが正直なところです。それでもその穴は理論上は埋めることができるという命題が誤りだということにはならないのです。
 「自由に介入できること」が何をもたらすかは極めて重要です。自由な介入が規則的な秩序に従って情報を手にできるところに科学の効用が見て取れます。そして、主体が自由に登場するのはこの「自由な介入」を通じてです。介入は主体的に、その後の経緯は科学的に、というのがモットーとなっています。
 これまでの話をまとめましょう。「トークン、物語、クオリア、因果性、私たちの世界観」に対して「タイプ、理論、素粒子、遺伝子、論理性、科学的世界観」が対応していて、二つのグループの間には独特の関係があることが説明されました。前者の背後に「心、精神、霊魂」が、後者の背後に「物、身体、物質」が想定されていることも述べられました。心身二元論とは世界が因果的で、物語的で、波乱万丈の歴史の世界であることを認め、さらに科学的な知識によって数学的な世界が表現できることも認めるという、私たちの欲張った欲望のなせる技なのです。もし私たちが個々の人生を認め、人生が物語であり、それが私たちの生活世界であることを認めるなら、私たちは心身二元論の信奉者なのです。