心身二元新論(1-7)

**これまで掲載したものをまとめたものです。

心身二元新論:試論(1)
(はじめに) 
 心身二元論と言えば誰もが思い起こすのがデカルト心身二元論。「心と身体は異なる実体で、両者の間には密接で直接的な相互作用がある」というのがその要旨で、多くの人には当たり前の事実(?)。この時の心身の相互作用とは「原因と結果からなる因果作用」であり、ある心的状態がある身体状態を引き起こし、また逆にある身体状態がある心的状態を引き起こすというような心身の間の相互の因果系列のことです。そこで問われることになったのは、心的状態と身体状態の間にある因果関係はどのようなものかということで、長い議論の末、終にはこの問題は解決できそうもないということになり、それがデカルト心身二元論の致命傷と見做されることになりました。そして、この致命傷から彼の二元論は誤った主張に違いないと烙印を押されることになったのです。
 ここではこの伝統的な心身の因果関係の他に、心身の間の別の関係を取り上げてみます。それは、広義の因果的な関係と呼べないことはありませんが、古典物理学の法則に従うような連続的な状態変化ではなく、歴史的な進化過程と呼んでしかるべき過程です。また、私たちが「何かを知る」という認識過程もここに含めてみましょう。でも、心と身体がどのような因果的関係をもつかを知覚レベルで意識することなど覚束なく、たいていの場合その関係は判然としません。そのためか、スポーツ選手は心と身体の関係を訓練、練習を通じて意識化、可感化しようと大変な努力をします。それは心身関係がある程度は学習されるものであることを見事に物語っています。心身関係に肉薄しようとすれば科学的に身体の運動変化を知ることと並んで、意志やその実現に向けての心的な操作に精通するために、適切な訓練や学習をしなければならないと思われています。これは宗教体験を考えれば一層明白です。釈迦の悟りの追体験としての禅の修行、一心不乱に念仏三昧にふけることなど,その典型例ではないでしょうか。
 心身関係は生物進化の結果として次第にできあがってきたシステムであり、私たちが自らの進化の経緯をほとんど知らないのと同じように、その進化の一部である心身関係についても私たちはほとんど知りません。にもかかわらず、常識は心身の関係を直観的に知っていると信じ込んできました。進化論は19世紀にやっと理論化され、少しずつ生物進化の具体的な仕組みや過程が判明し出してきました。また、脳神経系がどのようなものかわかり出すのは20世紀に入ってからですが、心的状態の変化と脳状態の変化の間の相関的な変化に関心が高まり、今では膨大な知見が収集されています。
 進化過程に関しては必要なことだけに限定し、その他は別の機会に譲ることにします。「気づく、意識する、知る、行為する」という(認識的な)過程を「介入」という観点から捉え、デカルトとは別の議論を展開し、デカルト心身二元論がその議論からの一つの帰結に過ぎないことを導き出してみましょう。
デカルト的な心身二元論の位置)
 まずはデカルト心身二元論を振り返っておきましょう。彼の心身二元論は子供でも簡単にわかる単純な仕組みになっていて、心的なものと物理的なものの間に因果関係があるという説明は私たちの生活世界の実像を見事に捉えていると思われてきました。心的なものと物理的なものの間の因果関係は自然で疑う余地がなく、心をもつ私たちの思考や行動を説明する当たり前の仕組みとして受け入れられてきました。物心ついた時から私たちは心身の相互関係の存在を正しいものと教えられ、それを使い、それに頼って生活してきました。そのため、言葉を使わないで考えたり、振る舞ったりできないように、心身の相互作用を前提せずに人間や社会のことを考えることはできないと信じ込んできました。皮肉なことに、デカルトの時代以上に、心身の因果関係を細部にわたって追求するのが現代です。心身の関係に一層敏感になればなるほど、私たちはデカルト的な二元論に支配され続けていることを強く意識するようになります。
 でも、少々冷静になって考え始めると、心身の相互作用という考えは、その見かけと違って、これほどわかりにくいものはないことがわかってきます。「意志することが行為を実行する原因である」という謂い回しに不自然な点は何もありません。例えば、殺人事件の解決には犯人の動機が大きな役割を演じます。にもかかわらず、誰も意志や動機から行為に至る因果系列を完全に特定することなどできません。それでもこの謂い回しが誤っているとは思われていません(殺人の動機と殺人の実行の間の連続的な因果系列が特定できなくても、殺人の原因として何ら不都合はないのです)。デカルト的な心身二元論が背後でお題目のようにこの考えを後押ししてきたように思われてなりません。細部がわからず、細部を考えれば破綻をきたすことがわかっていながら、当たり前の真理のごとく受け入れられる心身二元論は、大昔からの心についての宗教的伝統や倫理・道徳に助けられていたとはいえ、現在の私たちとその社会を実効支配し続けています。法律も経済もその基本には心身二元論が仮定されています。通常は正しいことが揺るぎない命題が土台に置かれるのが筋なのですが、心身二元論はなぜか土台に置かれて私たちの生活世界が成り立っているのです。これこそ謎の中の謎と言ってもいいのではないでしょうか。これは謎ではなく、少し改訂すればそれで構わない、というのが私がこれから主張する心身二元新論です。その前に、一つ考えておくことがあります。
心身二元新論:試論(2)
(なぜ私たちはデカルト的二元論に騙されてしまうのか)
 心身の間に法則的、あるいは非法則的な因果関係があることはどのような意味で正しいと断じることができるのでしょうか。心身の関係は歴史的に次第につくられてきた事実であり、ボールが落体の法則に従うのとは明らかに異なっています。落体の法則それ自体は進化しません。心身関係とは、偶然的な介入に自然選択が働き、それが蓄積され、心身関係が出現し、それが適応として進化し、いつかその生物種が絶滅すると、それと共に心身関係も消滅する、ということでしかありません。つまり、心身関係の進化は必然的な事実ではなく、偶然的なものを常に含んだ暫定的な規則性をもつ事実に過ぎないのです。生物種が世界に生まれ、死んでいくことが進化の要因を組み合わせて説明されるのと同じように、心身二元論が世界に生まれ、死んでいくことが進化論の中で説明されるのです。心身の因果関係は進化の結果、つまり適応であり、心身の因果関係は進化し、変化し続けています。
 心身の二元論に私たちの気持ちが自然に傾いてしまう理由は何でしょうか。私たちは、心的状態が物理状態に働きかけ、結果として別の物理状態を生み出すと信じ、行為の原因として自由意志を考え、その意志は心のもつ大切な働きだと思っています。私たちは自らの心を使ってものに働きかけ、ものを変え、ものを手に入れることができます(と思っています)。その中には他人に働きかけ、その人の行動、その人の心に影響を与えることも含まれます。心が心に働きかけることもままあるとしても、ほとんどはものに働きかける場合です。芸術でさえ、芸術家の心はまずものに働きかけ、絵画や音楽はまずものを通じて、作品を生み出し、最後に人々の心に訴えるのです。心がものに働きかけることができる理由としてデカルト二元論以外の理屈が模索されてきました。例えば、心的状態はその下に物理的な脳状態があり、脳状態に付随するのが心的状態であり、それゆえに心身の間には一定の付随的な相関関係があるという結論めいたものを生み出してきました。心を心だけで説明するのではなく、心と身体との関係で心を考えることの背景には「経験主義のトラウマ(なんでも経験に翻訳することが至上命令)」と呼ぶべきものが控えています。
 今や経験主義に反対する人はほんの一握りに過ぎません。経験主義を前提にして心の振舞いを理解しようとすると、知覚できるデータが不可欠で、直接に経験できない心的状態や心的能力を直接経験できる脳や身体の状態や能力を使って理解しなければなりません。これが経験主義のトラウマです。さらに、この経験主義を20世紀により突き詰め、先鋭化させたものが物理主義や自然主義と呼ばれています。それによれば、経験主義は経験科学によって具体化され、経験科学の中で最も信頼できる物理学によって世界を知ることが最善の知り方であるということになります。すると、物理主義や自然主義を信じるなら、心や精神は(デカルトによれば)物理的でない実体であることから、心を知ることは最善の知り方では原理的に知ることができないことになります。これは実に不都合な結論で、それゆえ、心はお化けのようなもので、心的状態が存在したとしても脳という物理的なものの状態に付随する仕方でしか存在できない、ということになります。実体としての心が否定されるのですから、このような結論が当然ということになります。
 さらに、実証主義や確証、検証といった知識の確認に重点を置く考えや概念(検証主義)が重視されるようになると、形而上学や哲学の抽象的概念とは異なり、情報、データ、検証、測定、観測といった知識習得の装置や技術が不可欠になり、それが心にも実証的に接するべきであるという態度を醸成することになりました。これは心にとってすこぶる不都合なことです。「眼に見える心」は「丸い三角形」のように形容矛盾だと受け取られてきた長い伝統があります。そのため、見えない心は経験主義の後継者となった実証主義、さらには物理主義や自然主義の中では無意味な形而上学的概念というレッテルを張られることになりました。そして、「こころ」は誤った時代遅れの概念に過ぎないと考えられるようになってきたのです。
 このような状況で、心身相互作用の二元論は、意外にも物理主義や自然主義に合う側面をもっていました。心が身体や脳とは異なる実体という規定は実のところどうでもよいものでした。なぜなら、アリストテレス由来の実体概念は時代遅れで無用な概念であることが言わずもがなのことになっていて、心身の身も実体であると誰も既に信じていなかったからです。それに対して、心と身体が相互作用するなら、具体的にどのような相互作用が認められるのか、これは科学的な問いとして満更でもないものでした。でも、冷静になればすぐにわかるように、心と身体の間の因果関係は魔訶不可思議で偶然的な因果関係風のもので、それゆえ、未だに明解な答えのないものです。科学的になればなるほど因果関係を特定しなくてはならなくなり、デカルト的二元論は科学的なターゲットにされ、ますます謎めいたものになってしまいました。
 以上のことが、私たちがデカルト的二元論にそれなりの魅力を感じ、自らをその二元論の中で考えることになる理由です。「心は身体に付随する」という現代風の心身関係は、物理主義をより重視する仕方で心身の関係を考えようとするもので、実質的には二元論と大差ないものです。心身の関係をつけること、心を物理過程に関連させて考えることが習い性となって、心だけ脳だけを独立に、自律的に考えることがすっかり忘れ去られてしまったことをここでしっかり確認しておきましょう。二つの間の関係より、二つそれぞれがどのように理解できるかをまず確定し、その後に必要なら相互の関係を考えればよい、このような態度で問題を捉え直してみましょう。心身の間に想定できる因果関係はどのような関係かといった問いは暫く忘れるべきなのです。
心身二元新論:試論(3)
(二元論のエポケー)
 映画の世界と現実の世界の間の乖離を考えるなら、夢と現実、犬の世界と猫の世界、天上と地上の世界といった、似たような乖離が数多く頭に浮かんできます。これらのどれよりも差の大きいのが心的世界と物理世界の乖離です。そんな二つの間に因果関係を考えることは果たしてできるのでしょうか?「犬と猫は話し合えるか」、「夢と現実の間に因果関係があるか」という問いがバカバカしい問いであると思う人がいれば、その人は「心と身体は相互作用するか」という問いをそれ以上にバカバカしい問いだと思うのではないでしょうか。でも、現実にそのように考える人はほとんどおらず、心と身体は乖離などしておらず、融合していると信じられています。
 デカルトの心身相互作用は本当のところどのような相互作用なのでしょうか。意識されているもの(感じているもの、表象しているもの、信じているもの、意志しているもの等々)の間での心的因果はある程度自覚でき、意識できるのですが、心身の間での因果関係は直接感じること、意識することができません。ヒュームが述べたように、私たちはそもそも因果関係を知覚できないのです。心と物理世界の間の因果関係を私たちは具体的に想像できません。「感覚知覚できる因果関係」という概念自体が実にあやふやで、因果関係は恋愛関係と同じように眼で見るだけでは皆目わからないのです。因果関係や恋愛関係は様々な情報の統合によって特定されるのです。因果関係は物理学の理論とその因果的な解釈に基づいています。そのため、物理学で定義できない「因果性」は無定義のままで、複数の常識的な解釈を許すものになっています。私たちの心(脳)は脳の変化を意識できませんが、それと同じように心身の因果関係も意識できず、解釈するしかないのです。
 物理的な因果関係が徹底して物理学の知識に基づき、その上「因果性」自体が形而上学的な概念であることから、物理レベル、生理レベルの因果関係は科学理論と因果性の定義に基づく仮構物だということがわかります。一方、心的レベルでの意識的な因果関係は心的レベルの論理的、言語的な関係と並んで、主体の思考や行動を理解し、説明するためには不可欠の枠組み、装置となっています。つまり、物理的因果関係が知識に基づく関係、心的因果関係は意識に基づく関係となっています。そのため、通常の心身の因果関係、私たちが自然に受け入れ、当たり前と思って使っている心身の相互作用の背後には、実は誰もよくわかっていないにもかかわらず、複数の因果関係の存在が自明のこととして信じ込まれているのです。これこそがHard Problemであり、「深遠なる謎」と呼ぶべき事柄なのです。なぜ私たちは心身の因果関係を受け入れ、自明のものとして認め、それを社会の中で真理として使ってきたのでしょうか。デカルトの偉大な天才に敬意を表してのことでないのは確かですが、彼の心身二元論がそれを自明の真理として促進し、自然に受け入れられることに大いに貢献したことも疑えない事実です。
 デカルトが提唱して以来、二元論的構図は哲学や神学だけでなく、法律や社会制度に適用され、近代社会の構図を構成する重要な考えとなってきました。心身二元論は仮説や仮構のはずなのに、真理であるかのように私たちの生活世界を牛耳ってきました。まさにデカルトの呪縛です。ですから、デカルト風の心身二元論は今でも私たちの常識そのものとして通用しています。
 しかし、その常識は次第に非常識に変わりつつあります。デカルト的二元論は構成された、人工的な二元論で、しかもとても不完全な二元論です。その二元論の細部は徐々に明らかにされ、その追求は現在でも続いています。どのように人工的に心身の関係を構想し、それを実際の因果過程として実現するかの試みは着実に続行され、それがAIやロボットの研究となっています。その研究と同じように、私たち自身生まれて以来の学習によって心身二元論を身につけ、その結果として心身をコントロールできる行動様式を獲得してきました。心身の関係をコントロールできることが技術の習得、スポーツ競技の優勝、生活のあらゆる場面での知恵に必要不可欠な条件となっています。
 心身二元論がこれほど普及している理由は絶えざる学習に尽きるのではないでしょうか。幼児教育以来の学習、社会の伝統、生活習慣等によって、言語と同じように心身二元論は私たちには自明で不可欠の生活必需品の一つとなっています。言語を学ぶように、私たちは心身二元論を学ぶのです。そして、心身二元論は言語と同じように思想ではなく、ほぼ無意識に使うことができる習慣になっている点に注目すべきなのです。本来なら心身二元論は哲学的な主張であり、疑われて当たり前のものなのですが、自明の習慣と見做されるとすべては変わってきます。物理主義や自然主義が思想であり、反対者が必ず一定数存在するのに対し、習慣は思想と異なり、無意識的に心身二元論を受け入れさせるという魔力をもっています。習慣は私たちの疑問や批判を麻痺させます。意識することなく、自然言語を操るのと同じように、知らず知らずのうちに私たちは心身二元論のもとに生活しているという訳です。
 習慣化した二元論をご破算にして考え直すことは、信じていた宗教を一度捨てて考え直すことに似ていて、想像できないほどに労力のいる仕事です。しかし、それを部分的に行うことはそれほど困難なことではありません。臆病なようですが、私たちにできることは局所的なエポケーです。二元論を部分的に否定し、物理主義や自然主義のもとに捉え直すことが求められているのです。

心身二元新論:試論(4)
 今日は少々カジュアルに、心がどんな風に醸成されてきたのか想像してみましょう。
 心はなぜ必要なのでしょうか。心のない人(最近は「ゾンビ」と呼ぶ習わし)がいたら、治療、養護、介護が大変で、社会負担が増えるでしょうね。健全な心をもつ人ばかりなら、その集団も健全で、安心できるコミュニティになると誰も思うはずです。心をもつこと、それも善い心をもつこと、さらには健康な身体をもつことが社会にとって重要だということになれば、心身二元論は社会に不可欠ということになります。つまり、心身二元論は私たち自身がつくり、守ってきたことになります。昔から善い心の醸成が洋の東西を問わず行われてきた理由はこのようなことではないでしょうか。
 人は言わずと知れた社会的な動物、それを守るために心が進化してきたと考えるのは理屈に合っています。それは生物進化の結果というだけでなく、文化進化の結果とも考えることができます。心は民族、歴史、文化によって微妙に異なる特徴づけを与えられながらも、基本的に心身二元論の枠組で捉えられてきたのです。それが最もよくわかるのは神話や宗教です。神話も宗教も人が人をどのように理解してきたかを素直に語ってくれます。どの宗教も心を必須の構成要素にしています。「心なくして宗教なし」と言い切っても構わないほどではないでしょうか。人に心や精神、霊魂や魂がないのだとすれば、宗教自体が存在しなくなるほどに、心的なものが宗教では重要な役割を果たしています。ですから、ゾンビは無神論者のはずです。今私たちが躍起になってつくろうとしている人型のロボットは必ずや信仰心を植えつけられます。それは信仰心をもつ人とのコミュニケーションには不可欠だからです。
 社会進化論、社会生物学進化心理学進化経済学、進化生態学等から、人が心をもち、それを使って情報処理し、情報の交換を行い、情報を操作しながら社会をつくって生きることがアカデミックに研究されています。確かに心の存在は物理学的にうまく説明できないのですが、心が人が生きる上での重要な役割を果たしていることは否定できません。正体は不明でも、役に立つとなったら、私たちは関心を寄せ、利用しようとします。ですから、心は金儲けのできる対象になってきたのです。心は脳や身体と同じように生物個体の生命維持に不可欠だけでなく、詐欺の対象そのものとなってきました。

(心の教育の二元論)
 人は心を教育によってつくろうとしてきました。それが教育の使命であると考える人は結構多いはずです。学校教育だけでなく、芸事、スポーツ、技術の習得についても同様で、心身の統合された動きや技が求められてきました。心を鍛錬し、ストレスに対抗できるようにすることなど、一流スポーツ選手には必須の事柄であり、心の鍛錬学習と言ってもよいでしょう。
 心身の相関がスポーツほどは求められなくても、心の学習理論には心身二元論が想定されているのが普通です。心を鍛えるために身体を鍛えることがその逆の場合と同じように求められてきました。
(進化的な適応の二元論)
私たちは世界の中で生きていますが、その生き方を「介入する(intervening)」と呼ぶことにしましょう。行為するために介入する、知るために介入することは、介入からスタートして、行為の結果や知ったことを蓄え、それらをさらに使うことによって、世界の中で出来事や知識が生まれます。生きることは介入することであり、介入を止めることは死を意味します。行為し知ることによって、さらに次の介入が促される、このサイクルが循環し、次第に行為や認識のパターンが形成されていきます。そして、これが因果関係として整理され、心身二元論として結実することになります。

 何かに誘発され、あるいは突然に「チョコレートが食べたい」という心的状態になったとします。あるいは、「これは何か」と疑問をもち、好奇心からそれを知りたいと思ったとします。そこから、チョコレートを実際に食べる、それはトラではなくヒョウだとわかる、ということが結果します。実際にチョコレートを食べたことが意識され、記憶に残る、あるいは、ヒョウだとわかったことが意識され、記憶に残ります。そのようなことがなければ、因果過程の結果が定まりません。研究者には結果が主体に意識されなくても一向に構わないのですが、介入する、行為の主体にとっては因果過程が意識されるものからスタートし、意識されるもので終わらないと完結されないのです。
 学習し、訓練することを通じて意志や欲求が具体的な行動に移され、結果を生むことができるようになっていきます。学習や訓練は一定のサイクルをつくり、意志や欲求がしっかり機能するようにするものです。したがって、出来上がるサイクルは一回限りの因果関係などではなく、パターン化された系列であり、規則性を示す法則によって説明できるものです。自然法則が最初から存在するパターンを記述しているのに対し、進化の法則は適応として獲得されたパターンを記述しています。それが証拠に、適応は過去の地球にはなかったパターンであり、未来にはなくなるパターンなのです(つまり、サイクルをもつプログラムになっていて、そのプログラムは進化する)。
 このように見てくると、心身二元論は哲学の理論などではなく、人とその社会が上手く生きるための方便のようなものだということになります。

心身二元新論:試論(5)
 前回はカジュアルな書き方になりました。誤解を恐れず、それを続けてみましょう。いわゆる心身二元論は哲学的でない哲学理論だと言いたかったのが前回です。いわば、偽物の哲学理論ということです。ですから、その時の私たちの科学的知識や常識に応じて、心身の関係は自由に変化し、ある過程が承認され、別の過程が否定され、それが不規則に変化することが心身二元論ではむしろ当たり前のことなのです。科学という枠組みの中で議論できないのが心身二元論だと思って構いません。胡散臭いどころか、実にやくざで支離滅裂な考えだと糾弾されても仕方がない面をもっています。それを印象づける、ずっと上品な表現を挙げてみましょう。

 偶然的な介入による選択的な過程とその蓄積による結果が自然選択(natural selection)
 偶然的な介入による確率的な過程とその蓄積による結果が遺伝的浮動(random genetic drift)

(自然選択と遺伝的浮動は進化の総合説の中では主要な進化要因と見做されています。でも、「選択的な過程」と「偶然的な過程」の違いは実に微妙で、時には区別がつきません。)

 少なくとも上の二つの過程を含む進化の過程は偶然を含むのですが、できあがった心身の間の関係は一定の時間範囲の中では決定論的な関係になっています。偶然的な歴史と実際の決定論的過程の違いは歴然としています。二つが両立しているというのは一途で正直な物理学者には解せないことかも知れません。肝心な点は、決定論的な心身の相互関係はその歴史的な構成から、いつ偶然的な変化が介入してもおかしくないということです。
 古典的世界観は決定論的世界観と言われてきました。ラプラスの悪魔はある時点での世界の状態がわかれば、未来永劫すべてのことが予測できると豪語し、それが決定論的世界観の表明と考えられてきました。今ではラプラスの悪魔は嘘つきということになっていて、古典的な世界も決定論的でないということをほとんどの人が認めています。世界のある瞬間の状態を完璧に情報化し、それを知ることは法外もなく困難なことというより、根本的にできないことです。「瞬間的な状態など測定できないし、すべては近似になり、近似では予測などできない」というのが実際の姿で、そのためラプラスの悪魔は夢の企みに過ぎないのです。にもかかわらず、その近似は理論的な障壁ではないと夢を見続ける人は少なくなかったのです。それゆえ、確定した状態とその法則に従った変化という世界像は根強く私たちの心に留まってきたのです。でも、それは誤った哲学の夢であって、正しい夢ではありません。では、まともな夢とは一体何なのでしょうか。
 そこで、ちょっと寄り道して、ポアンカレの回帰定理について考えてみましょう。その定理は、アンリ・ポアンカレ(H.Poincaré,1854-1912)により証明された解析力学上の定理(Poincaré's recurrence theorem)です。ポアンカレ再帰定理とも呼ばれます。ポアンカレは三体問題の研究の中でこの定理を見つけ、1890年に発表しました。
解析力学では力学系のひとつの状態は位相空間(質点の位置と運動量を座標とする空間)上の点で表され、その点の近傍はその状態に近い状態の集まりを表し、回帰定理はこの位相空間上の力学系に関する定理です。簡単には、「力学系は、ある種の条件が満たされれば、その任意の初期状態に有限時間内にほぼ回帰する」、「ほとんどすべての軌道が出発点の任意の近傍に無限回もどってくる」、「与えられた初期条件に、いくらでも近づき、かつそれを何回でも繰返すことができる」と表現されます。 ここである条件、つまり回帰定理の成り立つ条件とは、広く一般的にいえば力学系が保測的(位相空間内の点集合の体積が保存されること)で、その軌道が有限領域に限られていることです。例えば、ニュートン力学の成り立つ系で等エネルギー面を動く軌道(エネルギーが保存される状態の軌道)では回帰定理が成り立ちます。回帰定理が孤立系の現象の厳密な繰り返しを示したと解釈する人もいます。でも、この解釈には二つの意味での誤解があります。第一に、力学系は初期状態の近傍に戻るだけであり、初期状態そのものに戻るとは限りません。第二に、近傍に戻る時刻 (時点)の分布は特別な場合を除けば不規則であり、一定の周期をもちません。ポアンカレが示したように多体問題の解の軌道はカオスになることが多く、その場合は運動が周期的繰り返しにはなりません。
自然の変化がどのようなものかを考える上で、ポアンカレの回帰定理と自然選択は大変異なっているにも関わらず、いずれも自然の法則として通用してきました。
 さて、本筋に戻りましょう。「心」が偶然を含む進化の過程を通じてつくられ、決定論的な心身関係として機能していることから、「心」の進化と決定論的働きを両立させても、それで納得できたことにはなりません。「人に心がある」という言明こそ歴史上最大の嘘ではないかと疑ってみるのもいいかも知れません。心身二元論に入る手前の「心」の存在に関する基本的な疑問です。嘘というのが言い過ぎだとすれば、証明できない仮説と言い換えてもいいでしょう。どんな神話にも心をもった人が当たり前のように登場します。ですから、心のない人がいたら、その人は異常、変態、病気といった烙印が押されてきました。人が人に対してつくってきた仮説ですから、本当に始末が悪いのです。人に心がないと仮定すれば、不都合なことが山ほど出てくることは火を見るより明らかです。どうも私たちは全員で心の存在を仮定してきたようで、正に皆で仮定すれば何も怖くないということなのでしょう。誰もがほぼ無意識的に心の存在を騙ってきた共同正犯ということになります。
 心のない世界を想像しようとしてもなかなかできません。無理して想像しても、それは原始地球か火星のような惑星しか思い浮かばず、殺伐とした世界になるのではないでしょうか。心のない世界は実に退屈で、悲しい世界です。どんな自然でも心が関与しなければ、その自然はただの木偶の坊に過ぎず、風景や景色はどこにもないことになります。「知る、認識する、欲する、感情をもつ」といったものがなければ認識論も心理学もないことになります。

心身二元新論:試論(6)
 心も身体も共に考えられているよりずっと変幻自在で、時には心は身体以上に物理的で、また別の時には身体は霊魂と寸分たがわず、といったことが始終起こるのが私たちの生活世界です。そこで、心身の関係をもっと具体的に見直してみましょう。見直しのキーワードは「トークン(token)」と「情報(information)」です。
 情報は改めて説明する必要はないでしょうが、トークンとは何でしょうか。個々の人間や机が人間のトークン、机のトークンで、私たちが見たり触ったりできる個別的で物理的な対象がトークンです。一般名詞や固有名詞が指示する個々の対象がトークンです。
個々の生き物を「どのような生物種も自然選択の結果」と能書き風に一括説明できても、個別の進化の経緯を個々の出来事トークンの系列として特定することはできません。爬虫類から鳥類が進化したと幾つかの状況証拠から推測できても、その進化が実際に起こった過程はまるでわかっていません。そのため、爬虫類のある個体が変異を起こし、その何代目かの子孫が最初の鳥類として生まれた、といった歴史物語は夢のまた夢ということになります。
トークンとしての個々の実数とその名前について考えてみよう。個々の実数は存在するのですが、それが何という実数か言うことができない実数がほとんどです。私たちが個別に呼ぶことができる実数はたかが知れていて、ほとんどは名前をつけることさえままなりません。実数の名前は数えることができますが、実数そのものは数えることができないほどたくさんあるからです。歴史の事実もそれに似たところがあります。事実の積み重ねはあったはずですが、個々の事実はわからないといったことは珍しいことではありません。
意識できる心的レベルの状態の系列は意識する私にとって基本的にトークンの系列です。私たちの思考や意識が物語的になっている理由はそこにあります。ヘラクレイトス的世界に私たちは住んでいて、主体的に考える、意識することが実はトークンとして意識や思考を捉えているからです。「私」が意識されて、「私」が何かを考える、「私」の心で考えるという謂い回しに登場する「私」は、生きていて、今実際に考えている生身の私で、その私は諸行無常の世界で生きています。いつか死ぬ私はトークンであり、概念ではありません。何かを考える時には概念、つまりタイプを使いますが、それらを要素や部品にした私の思考や意識は、今を生きている私の主体的な思考や意識なのです。科学的な思考がタイプに見えることに騙されてはいけません。科学的な思考とは個々の科学者の個々の思考だとプラグマティックに見直せば、科学的思考さえも科学者個人のもつ思考であり、それはトークンとしての思考なのです。
でも、脳レベルの状態の系列ということになると、いつもタイプレベルの系列が念頭に置かれます。ある脳科学者のある脳状態の系列ではなく、一般的な脳状態の系列です(「私のこの机」ではなく、「机というもの」が問題になります)。確かに、私の脳だけ限定的に研究することもでき、その場合はトークンレベルの系列が考えられますが、基礎的な科学になればなるほど、それは稀になります。医療を除けば、私の原子を研究する人は皆無で、誰もが原子を研究するのです。「私の原子」や「私の脳状態の歴史的経緯」は問題にできず、考えにくいのですが、「心的状態の歴史的展開」や「人類の歴史」は議論が容易で、むしろ考えやすいのです。
 「私」と「心」の組み合わせはデカルト的な匂いに満ちていますが、心が意識であり、意識するのが私であれば、心と私は実に親密に結びついています。タイプの変化が物理学的な規則的変化を、トークンの変化が「一寸先は闇」のような変化を表していて、状態変化と歴史変化の際立った違いの根本に存在しています。
 ここからは情報について考えてみましょう。生き物が環境に介入することによって情報が産み出され、生き物はその情報を使って生存・生殖します。感覚器官は生きる手段、装置であり、環境の中から情報を取り出すために進化してきました。個々の知識はタイプ、個々の情報はトークンというのが私流の知識と情報の最終的な区別です。
 情報概念は多様です。存在論的に情報を捉えれば、世界は情報からつくられ、情報は存在を生み出しています。認識論的には、情報は知識の原材料になっています。個々の情報はトークンで、生き物に対して重要な意味をもっています。生き物は生きるために情報に頼り、それを使います。人間は情報も知識も同じように使いこなしますが、他の生き物が扱うのは基本的に情報です。情報を巧みに活用し、よどみなく使うには、情報の内容を純粋に把握することが必要となります。また、情報処理のプロセスなど、内容を把握するための装置はできるだけ自動化されていて、意識する必要がないことが求められます。ゆっくり反省などしていたのでは死にかねません。
生き物は生きる環境を情報化しています。生き物がいなければ情報もありません。情報は生き物の介入によって生まれ、生き物はそれを物語として受け取ります。物語がなければ情報など無意味です。原始的な生き物ではすべてがトークンとして現れています。トークンとしての対象の存在と出来事の生起は物語に他なりません。物語で語られるものは具体的なトークンです。「物語」は言語が生まれてからの産物ですが、言語のない時代について語れるのもやはり物語なのです。物語は筋立て、ストーリーが命であると言われますが、それが重要なのは、登場人物が何をどう考え、振る舞うかがわからない中で未来の予測に一喜一憂するところに面白さがあるからです。推理小説の面白さは正にここにあります。生々した世界はトークンからなり、物語によって特定のストーリーが展開される世界なのです。
物語の筋立て、ストーリーについて暫し考えてみよう。私の人生は一つで、私は複数の人生を同時に生きてはいません。幸いまだ生きていますが、誕生から現在までの私の歩みは私という一個の個体の連続的な変化だと私は思っています。これは私だけでなく誰も同じ思いでしょう。私と子供たちの人生は違う人生であり、法律上も違っています。私の人生と同じように物語の筋立てもただ一つのドラマとして描かれます。私や『二郎物語』を脚色する様々な道具立ては知識や事実のごったまぜですが、描かれる私や二郎は概念的な対象ではなく、特定の個人です。個人はトークンとして存在するゆえに個人なのです。大切なのは個人が物理的にトークンだというだけでなく、個人が社会的、法律的、そして規約的にもトークンだということです。人間でない犬や猫、そして登場人物の二郎は法律的に個人ではありません。でも、愛称をもつペットの犬や猫はトークンであり、二郎は読者の心の中で健気な主人公としてトークンです。生身の人間でない小説の主人公を特定の個人として読むため、読者は主人公の人生に感動するのです。それを叙述する作家は言語と一般的な知識を駆使してトークンである主人公の姿を描くことに腐心します。これは私自身についても同じで、私は自らを一般的な知識を使って日本語で考えています。二郎と私はほぼ同じ仕方で把握され、理解されていると言ってもいいでしょう。インターネットを通じてしか私を知らない人たちには私と二郎は同じような存在で、二人とも個人というトークンなのです。
物語を通じて描かれるものはトークンであり、そのトークンを通じて読者は一般的な主張を読み取るのです。その主張を直接に言うと哲学のようにつまらない内容になるためか、具体的なトークンの生々しいストーリー展開が真理を開陳してくれるという訳です。物語はトークンであることを示す工夫です。一般法則とは逆の個別の存在や出来事は、運動法則に従うなどという能天気な説明では描けません。トークンを描くには物語が必要で、その展開の面白さが個別のものの役割を際立たせることになるのです。

心身二元新論:試論(7)
 科学主義者には還元主義は心強い味方なのですが、それはとても不思議な性質をもっています。「私を分解していけば、最終的に原子にまで至ることができる」という還元主義の主張は、「原子だけでは私の個性を説明することができない」という常識とは相性がよくありません。自然科学を信じる私たちは、いずれも正しい文だと思っています。でも、どのような意味で二つの文は正しいのでしょうか。
 物語の世界と対照をなすのが科学理論が描く世界です。個別的なストーリーしか描けないトークン中心の物語に比べると、科学理論はその改良型と呼んでもよいもので、ストーリーの束を一括して扱うことができます。どのストーリーにも共通する、どのストーリーも違反することができないことが理論によって主張されています。科学理論に登場する概念=タイプは存在論的解釈を与えられ、それらからなる安定した構造的な世界がつくられます。どのような世界であれ、そしてそこで展開される出来事がどのようなストーリーをもとうと、それらが満たさなければならない事柄が基礎的な物理理論となっているのです。さらに、局所的な領域の局所的な現象(特別領域の特別な性質や現象)を扱う理論も様々につくられてきました。
 人間もトークンを感覚し、それを使って生きる生き物の一つです。人間はその感覚内容を言語を使って表現し、それが物語として人々の心を捉えました。次に、物語の形式から理論の形式へと大きな転回が起こります。理論は物語の内容を一括して説明するものです。説明ではなく個別的な記述がなければトークンとしての歴史はつくれません。でも、不思議なことに言葉を使う私たちはトークンそのものを言葉では語れないという根本的な制約、限界を知っています。記号のもつ根本的な性質は「記号は何かの代わり、代表、偽物である」ことですが、だからこそ記号は何かを表現できるという働きをもてるのです。トークンそのものではなく、言語を使ってトークンを表現するのが私たち人間のやり方です。ここに感覚経験と言語が介在する経験の違いを見て取ることができます。感覚経験はトークンの経験だけです。どれほど知識や記憶が関与し、それによって感覚内容が左右されることがあっても、三角形の概念を知覚することは決してなく、三角形めいた、鉛筆で描かれた線図を知覚するだけなのです。その知覚表象は「三角形のトークン」という形容矛盾のような表象なのです。この文は感覚的な経験をどのように概念化するかの例と考えることができます。
 典型的なトークンはクオリアクオリアを実際に経験しないで、それが何かを知ることができるでしょうか。ジャクソンの知識論証での問いはこの問いでした。赤のクオリアは言葉では「赤の感じ」としか表現できません。1の次の実数を「1より大きい実数の中で一番小さい実数」と表現するしかないように、赤のクオリアは言葉では間接的にしか表現できません。そのため、赤を知覚する経験によって赤のクオリアを直接に把握できると期待してしまうのです。
 では、1の次の実数を経験できるでしょうか。実数を知覚することはできないため、知覚以外の経験となりますが、今の私たちにできる経験は「1の次の実数が存在する」という命題の証明しかなく、その実数を直観できる人がたとえいたとしても、それを実証することはできません。では、赤のクオリアを経験できるとしたなら、その経験はどのような仕方で確証できるのでしょうか。
 科学的な実験や観測はコントロールされた経験であり、測定によるデータを使って予測が正しいかどうか確認するのがその通常の役割です。したがって、赤のクオリアも実験や観測によってその性質を確証するということになります。でも、この最後の文が何を言っているか考えると、奇妙なことになっていることに気づくはずです。すると、赤のクオリアは科学が扱うことのできない「生の感覚、生の感じ」であるという最初の理解は、それが科学的に確証できないものだと白状しているだけということになるのでしょうか。これはミスリーディングな結論で、正しくはクオリアは経験だと認めても、その経験をどのような実験や観測を使って捉え直すことができるかを私たちは知らない、と言うべきなのでしょう。
 私たちの世界への介入はラプラスの悪魔と違って、世界全体を一挙に相手にすることなどできません。分をわきまえ、小さな物理系に焦点を絞り、特定の物理量の時間的な変化を追うといったことしか対象にできません。それゆえ、相当多くの仮定を置いたうえでの話になります。何をどのように仮定して議論を進めるかが介入であり、介入によって物理系が決まり、その物理系の未来の姿が決まっていきます。介入するという決断をする、決めるのは通常は私ですが、強いられる場合も多々あります。世界に介入し、何かを知るのと介入によって世界全体を知るのは随分と違っています。いつ、どこで、どのように、何に介入するかは私が知る限り偶然としか言いようがありません。私は誰かに命じられるわけでも、まったく気紛れにでもなく、通常はある目的をもって介入します。そして、私たちは断片的な物理系をかき集めると、ジグソーパズルのように断片が整合的に並べられ、最終的には世界全体ができあがると思い込んでいるかのようにラプラスの悪魔の目論見を想像するのです。でも、実情はそれほど単純ではなく、穴の方が圧倒的に多いジグソーパズルで、95%以上は穴という欠陥パズルというのが正直なところです。それでもその穴は理論上は埋めることができるという命題が誤りだということにはならないのです。
 「自由に介入できること」が何をもたらすかは極めて重要です。自由な介入が規則的な秩序に従って情報を手にできるところに科学の効用が見て取れます。そして、主体が自由に登場するのはこの「自由な介入」を通じてです。介入は主体的に、その後の経緯は科学的に、というのがモットーとなっています。
 これまでの話をまとめましょう。「トークン、物語、クオリア、因果性、私たちの世界観」に対して「タイプ、理論、素粒子、遺伝子、論理性、科学的世界観」が対応していて、二つのグループの間には独特の関係があることが説明されました。前者の背後に「心、精神、霊魂」が、後者の背後に「物、身体、物質」が想定されていることも述べられました。心身二元論とは世界が因果的で、物語的で、波乱万丈の歴史の世界であることを認め、さらに科学的な知識によって数学的な世界が表現できることも認めるという、私たちの欲張った欲望のなせる技なのです。もし私たちが個々の人生を認め、人生が物語であり、それが私たちの生活世界であることを認めるなら、私たちは心身二元論の信奉者なのです。