雲の形状は虚勢を張っているだけなのか?

 雲は水蒸気、氷山は氷塊であるにもかかわらず、それらの形状は私たちの心を動揺させ、喜ばせ、悲しませます。自然の風景には私たちを挑発し、高揚させ、落胆させるものが実に多く、しばしば奇跡の光景として絶賛され、観光に寄与することになります。それはひとえに事物の形状、形態によってです。芸術家にも決して劣らない自然の妙技は神のデザインによるものとも言われてきました。名山も名瀑も絶景と呼ばれる景色はどれも芸術家が創作したものではありません。その理由を知らない私たちは、神の技か偶然の結果として受け入れざるを得ないことになります。

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 「知覚上の迷信」とは何でもないことを何かの予兆、兆しと思い込むことです。雲はその迷信を信じさせる恰好の例で、私たちは雲の見事な形状に魅せられ、囚われるのです。神のデザインかどうかは別にして、私たちは自然物の巧みな陽動作戦に見事に引っ掛かり、自然の企みの前では見事に騙されてしまいます。それを哲学は「私たちの知覚は誤る」と表現してきました。これはとても奇妙で、自らを一方的に卑下した判断でしかありません。知覚は自然の企みに素直に踊らされるだけで、自ら主体的に誤る訳では決してないのです。

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 かつてガリレオは自然の性質を二つに分けました。それが第一性質と第二性質で、ロックやヒュームによって有名になりました。そのためか、この区別は伝統になり、イギリス経験論だけでなく、現在に至るまで残存している始末です。第一性質は私たちの情報取得に直接関係しない物理的な性質ですが、私たちと直接に対峙し、関わるのがいわゆる第二性質です。本来の第二性質は客観的に実在する性質ではなく、私たちの知覚経験の中にある主観的なものと解釈されてきました。でも、第二性質は主観的どころか、知覚装置の実際の生みの親であり、自ら生み出した知覚装置を自在に操るために知覚装置そのものを進化させてきたのです。それが、第一性質と知覚装置の間のインターフェイスが第二性質なのだという見かけの結果をもたらしているのです。それはあくまで見かけに過ぎなく、第二性質が知覚装置を進化させてきたのです。
 動植物、建物、河川などと雲は何が違うのでしょうか。雲は実体がなく、触れることができないというのが普通の答えですが、温度も湿度も雲と同じように触れることができません。でも、それらの値が私たちの知覚を狂わすことはありません。温度や湿度の値の知覚に誤差はあっても、それによって知覚が誤作動することはまずありません。雲の形状は不思議なことに何かの予兆でしかありません。絵画の「モナ・リザ」が実物の人間でないのと同じです。その予兆のつまらない答えは雨です。温度や湿度とこの点では変わりません。温度や湿度が第一性質なら、雲は第二性質で私たちの心の生み出した産物に過ぎないというガリレオ以来の経験主義的主張が出てくるのですが、それは誤り。予兆のつまらなくない答えは誰かや何かの未来の運命の暗示です。何かを予告する兆しが雲の形状という訳です。「モナ・リザ」は私たちの主観的なイメージではなく、ルーブルに実際に収蔵されていて、私たちに何か影響を与えているのです。

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 雲は第一性質、雲の形状は第二性質という優等生的な区別も誤りです。形状のない雲などなく、雲とその形状は一体となっています。それは液体でない水が存在しないのと同じです。いずれにしろ、雲は客観的なもので、その形状も客観的な性質なのです。
 文学作品は作者の「つくりもの」です。絵画も彫刻も実物のコピーであり、芸術は模倣に過ぎない、美、特に自然美は誤った知覚のあだ花に過ぎない、という考えがアリストテレス以来根強く残っています。ですから、もし美が実在するなら、それは自然の中にではなく、私たちの精神や心に中にあるという訳です。誤解を恐れずに言えば、美は具体的に実在し、雲雲の形状は虚勢を張っているというのがここでの結論です。

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