経験科学の経験対象は何?

 ガリレオギリシャ以来の哲学を実験と観察の科学に転換した大御所。彼は科学が実在するものについての研究だという信念を堅持していました。ですから、彼の目的は現象と実在を見分け、その実在について研究する経験科学を確立することでした。そこで彼が考えたアイデアは「物体のどの性質や側面が真に物体自体の中にあり、どれが物体を観察する人の感覚器官(眼や耳)によってつくり出されるのか」を判別することでした。ガリレオによれば、物体自体の中には形、運動、量等があり、色、音、匂い等はそれを感じる感覚器官が生み出したものです。彼はどうして物体が本来もつ性質と、物体を観察するときに観察者に生じる性質とを区別したのでしょうか。ガリレオは、この区別がきちんとなされれば、世界の本性についての科学的研究は物体がもつ性質だけに限定できると考えたからです。こうして、現象を通じて実在の真の姿を明らかにするのがガリレオの経験科学ということになります。
 ガリレオのこのアイデアは一見すると大変見事で、物理学は実体や実在と伝統的に呼ばれてきた対象を経験的に見分け、研究できることになります。彼は私たちが感覚経験するものの中から実在や実体ではないものを選別して、物理学の本物の対象の範囲を決めようとしたのです。蛇足ながら、感覚される現象的な性質と、実在するものの性質という区別は現在では誤った区別であることは言うまでもありません。現在、色、音、匂い等は量子力学によって物理的な性質として研究されていて、私たちの感覚器官が勝手に生み出した心的な性質ではないことになっています。
 ガリレオ、そしてデカルトは機械論的に世界を捉えることを偏愛しました。その理由は、実在を質量、空間、時間を使って客観的に記述することによって、実在記述の基本的な形式が天文学や力学の研究対象に幅広く適用できると考えたからです。当時の物理学が機械論的な力学中心だったことが彼らの偏愛の理由です。「人間の本性」として挙げられる性質はガリレオデカルトの客観的な性質には入っていません。ですから、「女性の色香」も入っていません。
 では、経験論哲学が盛んだったイギリスはどうでしょうか。ロックの認識論的な動機は、経験する世界で何を信じることが正当化できるかを決めることにありました。彼は生得的な知識を否定します。そして、二種類の観念を認めます。一つは直接的な「感覚」で、他はそれについての「内省(reflections)」です。
 物体の中に形、運動、量等があり、感覚器官の中に色、音、匂い等があると考えたガリレオ、そしてそれに同意したニュートンの考えを哲学的に整備したのがロックによる二つの性質の区別です。どの観念が外部の実在がもつ性質への信頼できる手引きとなるのでしょうか。この問題に対するロックの解答は二種類の性質を区別することによって与えられました。第一性質は実在する性質で、対象の中にあり、私たちにそれに類似した、対応する観念を引き起こします。これに対し、第二性質は私たちに感覚を引き起こす、私たち自身の能力や傾向の性質でしかありません。
 ロックは第一性質が適切な観念によって表現されることが認識の正当化に必要だと考えましたが、そのためには第一性質とそれらの観念の間に「類似性」があることを仮定しなければなりませんでした。したがって、問題は類似性という概念が意味をもつかどうかにありました。類似性があると、どうして私たちはその性質について知ることができるのでしょうか。バークリーのロックに対する批判は、類似性だけではある観念が別の観念に似ているとしか言えず、正当化には不十分という点にありました。
 経験論の中での最初の反実在論者がバークリーですが、彼の現象主義は対象を感覚の束として考えます。(バークリー自身の表現によれば、「存在するとは、感覚されることである(Esse est percipi. To be is to be perceived.)」となります。)すると、事物を見ていないとき、その存在をどう説明するかがすぐに問題となります。眼を閉じたときにそれまで眼前に見えていた恋人はどうなってしまうのでしょうか。バークリーは、見ることを決して止めない神の眼と私たちの感覚の可能性によってその存在を説明できると考えました。
 ロックと同じように、ヒュームは感覚印象が私たちの知識の基礎となると考えます。そして、それら印象が互いに異なり、区別できる点でも一致します。ヒュームはこれらの離散的な観念の間に固有の結合関係はないと言います。私たちは決して事物の間の結合関係を観察しないからです。彼はこの一般的な結論を次のように具体化します。

(観察できないもの)
1. 因果関係:通常の見解では因果関係は原因と結果の間の非対称的な結合関係です。ヒュームが言うには、私たちが実際に観察するのは規則性であり、ある事物が別のものに規則的に連合していることだけが観察できます。「因果性」や「必然性」は私たちが付与するものであり、原因Aの後に結果Bが続くことを予想するのは長年の習慣によってです。
2. 自己:ヒュームは、私たちが時間を通じて連続する単一の自己であるという考えをもつのも因果関係の場合と同じ理由からだと考えます。私たちが観察するすべては私たちの観念のその時々のパターンです。それらをしっかり結びつけ、統一しているものなど私たちは観察しません。ですから、自己は観察されません。
3. 外在する対象:同様に、ヒュームは私たちの目の前にテーブルがあり、それが存在し続けると考えるのは心の習慣に過ぎないと考えます。 私たちが観察するものはテーブルの離散的な印象の系列だけです。

 ヒュームが正しければ、科学の役割は一体何なのでしょうか。それは現象の規則性の記述でしかなく、実在するものについての説明ではありません。ですから、ニュートンの運動法則も規則性の記述であり、自然の隠れた機構の説明ではないことになります。結局、科学は習慣の規則性の集合に過ぎないことになります。ヒュームの主張が正しいとすると、私たちが経験自体を経験することなど夢のまた夢ということになります。