経験的に知る=人間的に知る

 知覚経験を通じて何かを知るとき、大抵は一挙にすべてがわかる訳ではなく、僅かな一部が目に入り、耳に聞こえ、それらがもとになって徐々に知っていくことがほとんどではないでしょうか。ところが、カント以来の認識論ではお伽噺のようにすべてが完全に知られることが暗黙のうちに前提されて議論がなされてきました。部分的で、不完全な判断が判断の本性だとは思われませんでした。むろん、そのような傾向はプラトン以来の伝統として存在していたのですが…その修正が20世紀に入り、より具体的な姿をとって始まったのです。それが理性の経験化、具体化で、正にコンピューターなのです。

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 その先鞭をつけたのがゲーデル不完全性定理です。この定理はおよそ次のようなことを主張しています。最初の主張は「公理系が無矛盾なら不完全である、つまり、無矛盾にできている公理系には真あるいは偽と決定できない命題が存在する」ということで、第1不完全性定理と呼ばれています。さらに、「公理系が無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない」というのが第2不完全性定理の主張です。
 知覚経験を含まない論理的な推論でも、そこには必ずゲーデルが証明した不完全さが伴うことから、知覚経験はそれより遥かに不完全だと誰も思いたくなります。理性さえ不完全なのだから、感性はなおさらだとどうして人は考えてしまうのでしょうか。それこそギリシャ以来の哲学が生み出してきた悪しき伝統なのです。その議論を暫し振り返ってみましょう。
 知覚経験が誤りを犯す例は日常生活では数えきれないほど多くあり、正に日常茶飯事です。それゆえ、正しい、誤りのない情報や知識が感覚経験から得られるという経験論の主張は誤っている、ですから、そのような不完全な経験論を救わなければならない、あるいはそのような経験論に代る信頼できる理論が必要だ、といった議論がなされてきました。その結果、実に多くの認識論的な試みがなされることになったのです。これは今から振り返れば、どう考えても常軌を逸した振舞いとしか言いようがありません。「経験の本性を直す」というのは馬鹿げています。その元凶は理性と感性という単純な区別、それも優劣の評価が入り混じった区別にあるようです。

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 感性も理性も共に完全ではない、これが正解。感性とか理性とかいう区別や分類、言葉の表現も実にいい加減で、典型的な常識概念(fork concept)に過ぎません。強いて二つの単語を使うのであれば、「理性」も「感性」も共に私たちが何かを経験する中で使う装置の総称に過ぎないのです。理性の経験を無視した傍若無人の振舞いは許されません。「無限回の操作を自由に行使して証明する」というプラトン的な立場がいつでも許される訳でないのです。理性を経験的に使うという表現の具体的なイメージは「計算(computation)」です(それを実現してくれたのがフォン・ノイマンです)。理性の性能は計算能力にあり、計算の正しさ、速さが信頼性の基礎になっています。次は言語能力。何をどのように表現し、計算結果の的確な表現によってコミュニケーションが実現します。
 正しく、誤らない認識を特徴づけるのが過去の認識論だとすれば、これからの認識論は誤り、不完全な認識を説明することになります。人間が何かを知ることの正しい姿を見極めることが始まっているのです。