「思う」と「食べる」の違い

 デカルトは「私は思う、ゆえに私は存在する」と言ったのですが、「私は食べる、ゆえに私は存在する」と私が言ったら、デカルトは何と言うでしょうか。それでもよいと言うか、はたまた何を血迷ったかと非難するか、いずれでしょうか。模範的な解答はほぼ決まっていて、「「思う」ことを思う」ことはできても、「「食べる」ことを食べる」ことはできない、つまりメタ操作ができる「思う」に対して、「食べる」はそのようなことができない、だから、「食べるゆえに存在する」とは言えない、というのが哲学者が考えたデカルト的な答えということになっています。

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 この答えの趣旨は、「思う」といった意識レベルの述語が「食べる」という行為レベルの述語とどれほど異なるかを使ってデカルトを擁護しようという点にあります。このアクロバットのような哲学的議論に小躍りして飛びつき、妙に得心しないで、大きな違いを生み出しているのは何であり、その違いを生み出した張本人は誰なのかを別の角度から解明しましょう。
 「食べる」も「思う」も私たちの行為です。では、何が二つの行為の違いなのでしょうか。食べながら思い、知ることができます。この一例で言うのは早急過ぎますが、動作の述語は思考や認識の述語と共存できるのです。歩きながら考える、走りながら思う、考えながら食べる等々、私たちには複数のことを同時に自在にすることができます。考える、思うだけの行為など余程哲学的な状況でない限り存在せず、実際は考えながら必ず何か別のことをしているのです。二つのことを同時にしている時、私たちは何をしているというのでしょうか。「考えながら食べ、食べながら考える」のが普通の人の普通の行為であり、それが料理人ならなおさらのことなのです。考えながら料理し、考えながら食べ、食べながら料理し、料理しながら考えているのが私たちで、それが私たちの日常生活です。
 純粋に考えているだけで、他のことは何もしていない、などということはほとんどありません。私たちは基本的に「ながら族(属)」で、心は常に揺れ動き、身体は彷徨い歩いているのです。座禅を組み、一心に瞑想していても、私たちは実に多くのことを同時に行っています。それらは私たちが意識する、しないとは無関係なのです。体験する、経験するというのは意識的なものだけが言及されますが、実際は無意識の体験を複数個同時にしているのです。経験していると明瞭に意識できるものは私たちの行動の中の氷山の一角に過ぎません。
 私たちは、食べながら呼吸し、何かを見て、匂いを嗅ぎ、咀嚼するという物理的動作を同時に、しかも巧みに行っています。原子レベル、分子レベル、細胞レベル、組織レベル、器官レベルではそれぞれ異なる名称の作用、動作が始終なされていて、それらは皆違う現象や過程と考えられています。
 さて、これらの考察から何が言えるのでしょうか。認識論の対象である「思う、考える、知る、意識する、認識する」といった述語が行為を表す他の述語と同時に使われるということは、認識論が行為論やその他の科学理論から独立していないということを意味しています。つまり、認識論は行為の述語の狭い範囲の話に過ぎず、私たちの様々な行為のほんの僅かな断片についての考察に過ぎないのです。にもかかわらず、私たちは認識論に過大な期待を寄せ続けてきました。そろそろ是正する時期です。