記憶の中のケヤキとブナ(欅と山毛欅)

 私が生まれたのは裏日本の豪雪地帯。十数年10前に妙高市となったが、その市の鳥、花がそれぞれオオルリシラネアオイ。どれも私の子供時代の生活の中には存在しなかった。だが、ケヤキは身近な樹木だった。子供の頃の記憶の中にはケヤキがどっしりと存在している。併合前の旧新井市の木はケヤキだった。妙高市の木であるブナは私にはよそ者で、雑木の一つに過ぎなかった。
 私の育った家だけでなく、どの家にも庭木があり、しっかり手入れされていた。我が家の裏庭にはケヤキの大木が二本あった。家を守るかのように枝を伸ばし、夏は日差しから我が家を守ってくれていた。屋敷の守護神そのものだった。威厳に満ち、周りの木々を悠々と従えているといった感があり、庭の王者だった。いつ抱きついても木の肌は滑らかで、脂の多いマツやスギと違って私を拒むことはなかった。

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 夏から秋にかけて薪をつくるのが当時の私の役目だった。スギやキリと違ってケヤキは切るのも割るのも桁違いに難しく、ケヤキの堅さを感じ、その頑固さを思い知った。
 ブナについて述べるのに躊躇するのはなぜだろうか。近年、ブナは森林の王様の如くに扱われ、ブナ林は観光の目玉になっている。ブナに特段の恨みはないのだが、私の心の中ではブナの木は雑木に過ぎない。雑木とは差別用語と言ってよく、薪か炭の材料でしかないという意味である。建築用の材木ではないのである。ブナ一本は雑木に過ぎないが、ブナ林は山を守り、維持する生態システムの主役として実に有用であり、それを否定するつもりはさらさらない。

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 ブナの一本の木とブナの林や森は私にとって違った意味を持っているのである。ケヤキにはこんな不思議なことはない。ケヤキは一本でも並木でも同じように役に立つ。屁理屈を言えば、私はケヤキの一本の木を愛せるが、ブナは林か森でしか愛せないという訳である。私は今は切られてしまった屋敷のケヤキが今でも大好きである。そのケヤキに固有名詞をつけて呼んでもいいと思っている。ケヤキはペットのようなものだが、ブナは牛や羊の群れのようなものでしかない。これが偏見であることを知っていても、そのように感じる自分を否定できない。
 確かに、家の庭の木は皆固有名詞で呼んでもいいものばかりだった。柿の木、グミの木、サクランボウの木、イチジクの木、クリの木、そしてウメの木と、私と共に生きる実に多くの木々があった。それらは人と共に生きる木であり、山の木々とははっきり違っていた。私の家のケヤキは私と共に生きる木だったが、ブナは山の木だった。
 子供時代の記憶だけを頼りに話すと、このように偏った内容になってしまう。だが、このような感覚的な記憶がケヤキとブナの無意識的な評価につながっている。子供時代の記憶が邪魔をして、私は樹木に対して公平にはなれないようである、特にケヤキとブナについては。
*欅はニレ科、山毛欅はブナ科。葉はそっくり。欅は里にあるが、ブナは山にあり、しかも「毛」は、ブナの若葉に産毛が生えているため、というのが豆知識。