「現在」とは一体何なのか

 「現在(present)」とは言わずと知れた「今(now)」のことだが、「今」はわかったようでわからない不思議概念の一つ。「今」は今しかなく、一瞬でしかないと思われている。一瞬の出来事と言えば、夏なら流れ星や花火が思い浮かぶ。「今」も「一瞬」も文字通りの瞬間かと問われると答えに窮する。流れ星も花火も長さのない瞬間にあるのではなく、ある一定の間起こり続ける現象だということを認めないと、目撃することも楽しむこともできないから、文字通りの瞬間、瞬時ではないと考えざるを得ないのである。持続しない瞬間など私たちには経験できない。にもかかわらず、持続する瞬間として「一瞬の出来事」といった表現をよく使う。しかも、その表現を単なる比喩ではなく、実質的な意味を込めて使うのである。例えば、梅雨は持続するが、交通事故は一瞬の出来事なのである。

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亀倉雄策東京五輪のポスター
亀倉は1915年新潟県生まれ。1935年に日本工房に入り、土門拳らが活躍した海外向け雑誌「NIPPON」の構成を手がけた。戦後フリーになり、1950年代には「ニコン」のポスターシリーズなどで活躍。

 「現在」が正確に何時から何時までかなど大した問題ではなく、「現在の状況」や「現在の問題」がうまく処理できればそれでよいと普通の人が普通に主張するのは極当たり前で、わからないことはない。実際、「現在」がわからないなどということはなく、皆わかっていると思っている。それは現在形の文を使えるからである。時間はTime、時制はTenseで異なるということになっている。だが、何がどのように異なるかとなると、形式的な返答はできても実のところは何もわかっていない。その形式的返答とは次のようなもの。時間は物理的なもの、時制は言語的なものであり、混同など起こらないように見える。時間的な過去は過去形という時制で、現在は現在形、未来は未来形という時制でそれぞれ表現される。だから、時間と時制の間には対応関係があり、過去は過去形、現在は現在形、未来は未来形に対応している。
 現在が幾何学の点のようなものだと思いたい私たちは「点」の概念を確認することになるが、その結果唖然として立ちすくむことになる。数学的な対象としての点にはサイズがなく、現在はどこにも実在しなくなってしまう。点が物理的に実在するにはサイズが必要だが、点がサイズをもつと数学的に矛盾することになる。その点はデカルト以来実数で表現され、対象の状態変化が関数的に理解されてきた。そんな点や実数を使って「現在」を解釈するのはおかしいのかも知れないが、今のところそれ以外の解釈の仕方を私たちは知らないのである。
 「現在の問題」と言えば、政治や経済の問題が誰の頭にも浮かぶ。だが、いつまで現在かと言われると困ってしまう。「何時から何時までが現在か」という問いに成程と思わせる解答は見たことがない。昨日は現在ではないし、明日も現在ではない。「瞬間」の長さを問うなら、きっと嫌がられるだろう。誰もうまく答えられない。瞬間を点と解釈し、一つの実数を対応させた解釈は数学的に見事だったが、知覚レベルでの瞬間にはまるで当てはまらなかった。
 数学的な解釈は大抵はうまく行くのだが、時間に関してはうまく行かない。うまく行かないことが時間を一層神秘的なものにし、哲学者が飛びつくような対象にしてしまったのかも知れない。時間が哲学的なのは点の解釈が何とも歯痒いくらいにうまく行かないからに過ぎない。歴史や因果連関に比べれば、時間が格段に哲学的な事柄だということはない。
 人は「現在」がわかるという幻想のもとで、自分たちには伝統的な歴史があり、夢ある未来があると勝手に思っている。人は時間に対して実に楽観的で、その無垢さには脱帽である。「現在」を知らずして過去も未来もわかる筈がない、という常識のもとでは人は全くの赤子ということになる。ということは、「現在」はそれほど重要ではないのかも知れない。
 恥ずかしいほどに、人は未だに「現在」が何かを知らない。現在起こっている事柄を経験し、それに対応するのだが、その「現在」とは何かをうまく理解できないままなのである。奇々怪々のことだが、現在起こっていることを経験できるが、その現在は経験できないのである。    
 こうして私たちはヒュームの主張に逆戻りすることになる。