ファジーであること

 数学言語を使って表現される世界は明晰にして判明ですが、自然言語(日本語や英語)による表現は曖昧で不確かだと思われてきました。自然言語のどこが曖昧で不確かなのかを明晰・判明にすることが20世紀中葉以降になされ、その果実が色々な分野で応用されてきました。これは「不確定性」を確定的に表現する、説明するとどのようになるのかの見本と考えることができます。日常の言葉遣いは曖昧模糊としていますが、どのように曖昧模糊なのかの説明ができ、一段落したのは確かです。
 その曖昧さの仕組みがファジー論理と呼ばれるシステムです。通常私たちが使っている論理は二値論理(two-valued logic)、つまり、「どんな文も真か偽のいずれか一方の値をもつ」ことを前提にした論理です。ですから、「明日は雨が降る」という文は明日にならないとはっきり真か偽か言えなくても、いずれかの値をもつことが前提にされています。このような二値論理に対して,真か偽かの判定に0から1までの実数の値を与えた論理体系がファジー論理で,アメリカの工学者ザデー(Lotfi Asker Zadeh、1921-)によって1965年に発表されました。実は論理学では既に多値論理(many-valued logic)として東欧を中心に研究されていたのですが、流行したのはファジー論理という名前とその工学的応用でした。ファジー論理は制御理論(ファジー制御)から人工知能まで様々な分野に応用され、一時は洗濯機や掃除機にもファジーという名前が使われていました。
 「Aさんは美人である」という文の「美人」は美人という概念を表す一般名詞です。この美人という概念は2や5という自然数や実数という概念と違って曖昧模糊としています。人によって美人概念は異なりますし、客観的に美人かどうかの判定基準はないのではないかと思われています。美人が曖昧な概念ということはどのようなことなのでしょうか。その説明として考えられるのは、「美人という概念の外延が明瞭でない」というものです。概念の外延とは集合のことで、集合のメンバーかメンバーでないかははっきり決まっているというのが伝統的な大前提。しかし、集合の境界がぼんやりしていて、メンバーであるかそうでないかが判定できない場合を考えることはできます。白か黒かはっきりしていない場合、私たちは灰色の場合を巧みに消し去ることも、灰色を公然と認めることもできます。後者を選択すれば、集合の境界に幅があり、その幅の部分が灰色というモデルを考えることになります。
 自然言語で使われる一般名詞はファジーだと考えると、どうして言語表現が曖昧で、多義的であるのかについて、一つの説明を与えることができます。その説明によれば、知覚内容を自然言語で表現するとき、知覚がはっきりしているかどうかはっきりしないので、それを表現する自然言語がぼんやりすることになって、そのために曖昧な表現が生まれるということになります。
 私たちが使ってきたのは二値論理であり、そこでは概念の外延はいつも明瞭で、境界は分けることができると想定されてきました。少なくとも、学問的な思索や推論では意識的にそう考えられてきました。
 知覚が本来確定的でないのか、知覚を表現する自然言語が確定的でないのか、これまでの話からはまだ釈然としないかも知れません。外延がぼんやりしていると、「Aさんは美人である」と「Aさんは美人でない」の選言は二値論理なら真なのですが、そうではないことになります。そんなことから、ファジー概念は自然言語と推論のある面をはっきりさせてくれるのですが、二値論理が誤りだという強い結論にまでは到達できません。二値論理を補完する役割は果たすのですが、それにとって代わるものではありません。