人間のもつ二つの能力

 「瞬間」の数は数えきれませんが、特別の瞬間としての「今」をつくるのは今存在して、知覚している私の意識です。私の過去や未来の瞬間には私が共に存在してはいません。「今」から過去や未来を見ている私がいて、それが私の記憶や予想をつくり、過去を見る私、未来を考える私になっています。過去や未来は区間でもあり、また瞬間でもあるのですが、「現在、今」は瞬間だけです。これは一体何を示唆しているのでしょうか。
 知覚しているものが正しいかどうかは知覚によっては決められません。これが知覚の特徴であることをまず確認しておきましょう。もどかしいことに、自らの正しさを自ら言えないのです。古典的な解釈とは知覚から見れば近似的な解釈に過ぎません。それは明らかに知覚の正確な解釈ではありません。でも、その近似を認めないと古典論理が成り立たないことになります。「理想化された世界=近似的世界」で成り立つのが古典論理です。ですから、論理とは理想化された世界を考え、語る装置に過ぎません。
 言語がなく、数学もなかったら、世界はどんな風に認識されていたのでしょうか。この平凡な問いへの答えは幼児や動物の行動をしっかり見る以外にないでしょう。言葉を省いての世界の理解へのヒントは芸術、映像、スポーツ、そして感覚と思う人が多いでしょう。それらが心による創造、心の産物だと言う前に、心が世界を言葉なしに理解した結果だと考えるより、心が世界を言葉と共に理解した結果だと考えるのが順当でしょう。数学や言語がない世界を想像できたとすれば、その世界は快楽が注目を浴びる世界になるでしょう。言葉や数学がなければ、感じることしかできず、感じることが知ることになるのですから。
 言語と数学があると、モデルをつくり、シミュレーションすることが簡単にできます。つまりところ、予測や説明ができるのです。世界は何か、どのように変化するかについて語ることができ、議論できるのです。
 アリストテレスは数学を使わないで自然の仕組みを説明しようとしました。そこに登場する確定性や決定性は論理的なものだけで、数値がどれほど正確かには及んでいません。大天才のアリストテレスだから及んでいるように見えますし、及んでいなければならないのですが、実際は形而上学的議論に終始するだけです。
 知覚経験と数学的表象の両方とも人間のもつ類まれな能力。二つは見かけは水と油。ですから、何人もの哲学者が二つを敵対するものと誤解して、とんでもない議論を展開したのです。その一例がベルクソン。本来なら、この二つの能力がどのように協働できるかを考えるべきだったのです。
 現在主義は知覚経験の「今」を基本にしますが、科学理論は数学的な「今」、つまり数や点を基本にします。この二つの基本は矛盾するのでしょうか。両方を確かに人間は併せ持っています。その事実は二つが矛盾しないことの経験的な証拠です。矛盾するものを進化が許容する筈がありません。
 日常生活で正確な時刻を尋ねられ、待ち合わせの時刻を約束させられます。このように私たちの生活のあちこちに正確な時刻が入り込んでいます。これは空間も同じこと。同じ場所、同じ時刻といった概念を私たちは生活の中で巧みに習得し、それを使った生活が私たちの生活になっています。
 「知覚する」のも「測定する」のも私たちで、私たちは二つのことが両立することを疑いません。