創世記の物語:イサクの燔祭(2)

神が止めなければ、アブラハムは息子を殺したのか?
 アブラハムが神に命じられて我が子イサクを犠牲にする(ユダヤ教での燔祭=いけにえの動物を祭壇上で焼き、神にささげること)という旧約の物語とそれを描いたレンブラントカラヴァッジオの絵画を昨日紹介しました。旧約の物語ということはユダヤ教にもイスラム教にも共通の物語ということです。旧約は三つの世界宗教の共通の聖典ですから、三つの宗教とも通常の社会の倫理や道徳と大きく異なる点をもつということになります。
 ただ、アブラハムはイサクを実際に殺してはいません。殺したのでは話になりませんから、神は燔祭を中止したのです。ですから、アブラハムは子殺しという犯行には及んでおらず、イサクを傷つけてもいませんから、世俗の法でも殺人罪で罰せられることはありません。
 ギリシャの神々が悪行を犯し、日本の神々も互いに争うという古代の神話の世界と似たような物語が旧約にも登場しています。しかし、絶対的で完全な唯一の神の物語ですから、多神教の物語とは違って、ずっと純粋で真剣な筈です。その絶対的な神が我が子を生贄に差し出せと命じるのですから、アブラハムは気が狂ってもおかしくない状況に置かれたと推測できます。いたずら好きで、茶目っ気のある神々の行動ではなく、唯一絶対の神の真剣な命令ですから、その重みはまるで異なります。
 恐らく、創作能力に長けた文学者が関与すれば、もっとうまい物語ができたのではないでしょうか。旧約の物語は確かに読む人々を驚かせ、話の展開もドラマティックなのですが、戒律を通じて神に従うことがシナリオになっています。信仰心のあり方を示す多様な物語にはなっていません。また、神話として旧約を眺め直しても、他の神話に比べて特に優れているという訳ではありません。我が子を犠牲にして信心を確認するという神のやり方は神に相応しいとは思えません。
 ほとんどのクリスチャンは旧約の物語を文字通りに信じてはいません。それは私たちが古事記の内容が事実だと信じていないのとほぼ同じです。では、その内容は単なる比喩、寓話のようなものなのでしょうか。神話や物語は事実ではない創作であるということになると、仏教の経典のように信仰のための方便という解釈が出てくるのですが、キリスト教がそんな穏便で巧妙な解決をとることは考えにくいことです。
 実際の科学的事実とは明らかに異なっている旧約の内容に意義を見出すにはどうすべきなのでしょうか。科学と宗教は次元が異なると乱暴に結論することによって蓋をすることが今までの習わしでした。でも、科学知識ではない倫理・道徳は厄介です。というのも、私たちが生活するときの行為は様々な規範に基づいていて、規範が異なると争いが起こるというのが過去の歴史でした。アブラハムの行為は、もしイサクを生贄にしてしまったら、世俗の法律、倫理によれば罪のあること、悪行ということになります。戦争で敵を殺すのは殺人ではないという方便が神とアブラハムの場合にも適用されるのでしょうか。神は殺人を教唆したのではないのでしょうか。
 幸いなことに、アブラハムは殺人を犯さず、神に従うキリスト者として尊敬されることになりました。でも、アブラハムがどのような気持ちで殺そうとし、どのような気持ちで結果を受け入れ、神への信仰を続けることができたのか、私はアブラハムとイサクに尋ねてみたくてなりません。私ならどう振舞い、信仰を守り通すことができたのか、どう考えても納得できる答えが得られないのです。