創世記の物語:イサクの燔祭(4)

 イサクの燔祭の物語はイエスの死と復活の物語につながっている。イサクは穢れなき子羊の代わりに燔祭に供され、イエスは洗礼者ヨハネによって「神の子羊」と呼ばれている。そして、イサクの燔祭のモリヤの山から、イエスのゴルゴタの丘へ聖地が移された。

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 アブラハムの熱烈な信奉者であったキェルケゴールは、その著書『おそれとおののき』で、神の命令を成し遂げたアブラハムを信仰の英雄として讃えている。キェルケゴールによれば、アブラハムには自殺という選択肢もあったのだが、その絶望の境地から一躍、信仰の父としての評価を勝ち取ったとしている。キルケゴールは「倫理」の次元と「信仰」の次元を峻別する。「倫理」の次元で言えば、アブラハムは息子を殺そうとした殺人者である。だが「信仰」の次元では、個別者が絶対者に対して絶対的な関係に立つという逆説を生きる「信仰の騎士」である。「倫理」の次元では、アブラハムは語る言葉を持たない。生贄の羊はどこ?とイサクに問われて、「それは、お前のことだ」とも、「さあ、どこにいるのか私は知らない」とも言うことはできない。ありうる唯一の言葉は、倫理を超越した「子よ、全焼の供犠となる羊は神が見いだされよう」ということ以外にはない。

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 後期のデリダの『死を与える』(Donner la mort(1992)廣瀬、林 訳 筑摩書房2004)の主題はアブラハムとイサクの物語。アブラハムは子孫が増えると神から約束されていた。アブラハムもサラも年老いてからイサクを授かる。ところが神は、子どもを授かったアブラハムに「汝のイサクを供え物として捧げよ」と命じる。神の約束と命令が矛盾している。アブラハムがイサクを祭壇にのせて殺そうとする瞬間、「汝の信仰はわかった。イサクを殺すな」という神の声が聞こえてくる。
 有限な視点しかもたない人間が無限の神を知っているというのは矛盾である。では、人間は「他者」に対する無限の応答可能性としての「正義」に到達できるのか? 答えは人間として「死」ぬこと。つまり、人間としての常識をいったん白紙に戻し、人間の常識の範疇では表象しきれない、無限の他者としての神の声を聴ける状態が必要である。それが「死」。動物の反応に倫理学的な責任はない。動物は過去にやったことを、みずからの内面で「反省」しない。犬が人を噛んで怪我をさせ、怒った人たちがその犬を殺したからといって、犬に責任を取らせた訳ではなく、犬が強暴だから殺したということに過ぎない。「責任=応答可能性」の基盤となる人格の「継続性」が、ここで問題となる。「責任」は、不可避的に「死」の問題とつながる。普通に考えれば、「死」ねば「応答」のしようがないからである。法律的・政治的な「責任」の範疇で考えれば、私が悪いことをしたことが、私が死ぬまで誰にもわからなかったとしたら、死んでしまった私はもうこの世にはいないので、それ以上の責任を追及されない。それなら、自分の墓まで秘密を持っていけばよい、ということになる。だが、相手を消滅させても責任は消えない。死後にも、私の「責任=応答可能性」を継続させるものがないと、法的正義を超えるような、絶対的な「責任」の観念は出てこない。そのため、「死」というモチーフが、「責任=応答可能性」の文脈で出てくることになる。それが、『死を与える』というデリダによるエクリチュールの「主題」である。
 カントは『実践理性批判』で、人間が理性に基づいて善を追求するには、「意志の自由」と「魂の不死」、そして「神」が必要だと述べた。人は、自然の法則にしたがって反応している動物ではなくて、自由意志にしたがって自己の行為について選択し、判断している。だから、自分が行ったことに対しては「責任=応答可能性」が生じる。そして、この私の魂は死後も継続していて、それを絶対的な神が見ている。したがって、自分がやったことに対する「応答可能性」から逃れることはできない。この三つのうち、「魂の不死」と「神」が抜けてしまうと、善を追求する意味がなくなる。人格の継続性を考えるときに、性格や記憶は変わるかもしれないが、その根底にある「魂」は死後も変わらない。このような信念が倫理や道徳の根拠になっている。
 カントは『純粋理性批判』で神の存在は証明できないと述べたが、道徳の根拠としての「神」という観念は不可欠だと主張する。さらに、自分と他人の魂を関係づけているものは「神」だと述べる。デリダも『死を与える』で同じことを示唆している。「人間、死ねば終わりだ」と思っていれば、「責任=応答可能性」を引き受ける主体としての「私」もいつか消滅する。それと同時に、責任を追及する他者もいつかは消滅する。そもそも、相手の中に、私と同じような心があるかどうかさえ、わからない。「私と同じような自由意志を持った他者がいて、その他者も私と同じように不死の魂を持ち、永遠に私に応答を求めてくる」ということが成り立つには、絶対他者としての「神」が必要になってくる。西欧では、キリスト教の影響で、死後も地獄や天国に魂が残るとされている。(ユダヤ人として生まれた)デリダは、キリスト教的な形而上学として、神を無条件に前提としてしまうような考え方を脱構築する。そして、その際に倫理につきまとう「死」を取り上げる。魂が死後も存在し続けると想定しなければ、道徳や倫理は機能しなくなってしまう。
 「死を与える」という表現は日本語に馴染まない。とはいえ、封建時代に主君が家臣に対して切腹を命じて、家臣がそれを受け入れるというのも、基本的には「死を与える」、「死を賜る」という関係である。殉死は「死」のやりとりである。「与え」られる筈の「死」と直面することにより、魂の不死性という観念への気づきが生まれ、そこから人は、「責任」について本格的に考えるようになる。
 このような議論は「責任=応答可能性」だけでなく、人間の行為に対する判断すべてについて適用できる。それらがすべて死を越えて追及、判定されなければならないとなると、この世があの世に左右されることになりかねない。これはいわば輪廻の世界にはまり込むことでしかなく、倫理や法律の宗教化と言えないこともない。世俗の倫理や法について世俗の中で一貫して捉えることは意外に評判がよくないのがこれまでの歴史である。