連続的な無限が溢れる物理世界の描像(2)

**このノートをきちんと理解したい方は「連続的な無限があふれる物理世界の描像(1)」と併せて読んで下さい。

有限の中に潜む無限
 まず、物理世界の対象にはどのようなものがあるか見直してみましょう。身の周りの椅子、本、鉱物、生物等は皆この物理世界の対象で、通常は眼に見える対象として、一定のサイズをもって存在しています。小さくて見えない分子や原子もそれぞれサイズをもっています。どのように工夫しても見えないが、それにもかかわらず存在すると思われている対象など、一部の素粒子を除いて、あるのでしょうか。この疑問に答えるような格好の候補が時間や空間です。椅子や本と同じように存在するかどうかは意見が分かれますが、時間や空間は物理世界を考える上で不可欠のものです。時間や空間もこの物理世界では限りがあり、無限に遡ることができる過去も無限の大きさをもつ天体もないと考えられています。ですから、物理世界の時間や空間も物体のサイズや個数と同じように、その長さや広さは有限に限られていると断定したくなるかも知れません。そこで、普通の長さの距離や人の一生の間の時間を頭の片隅に置きながら、限られた長さや大きさをもつ時間や空間(そして、その中の対象)のどこに無限が入り込むのか考えてみましょう。10秒、3cm、56kgのどこに無限が存在するというのでしょうか。それを考える鍵は何と幾何学にあるのです。

幾何学的な構成:点や線の絶妙な定義
 ユークリッド幾何学の定義とその解釈を今更確認する必要はないのですが、普通議論されない最初の定義が如何に大きな効果をもつものなのかを再度確認してみましょう。併せて、数学的な言語が自然変化の表現にどれほど重要な役割を果たすかをモデル、表象という観点から捉え直してみましょう。
 点から線をつくることが定義上できる筈ですが、手を使って作図する以外の仕方でどのように線をつくるのか、その方法を構成的に示しなさい、と言われるとできないところに全ての謎の出発点があります。点の定義からしてありえない定義です。「部分がない、つまりサイズのない」のが点である、と言われて訝しく思わない人がいたら余程鈍感な人です。素粒子のことなど知らないギリシャ人でも、物理的な対象にサイズがなかったら、物理世界に存在することさえ覚束ないことが直ぐにわかります。点は物理世界に存在しないからこそ、プラトン的な存在なのだと鸚鵡返しに習ったことを思い出して安心してしまう人などいないでしょう。その上、サイズのない点が集まって線ができ、その線も長さはあっても太さがなく、線からつくられる面は面積があっても厚みがないということになっています。こんな幾何学的な存在では物理世界を正しく表現などできる筈がないというのが理屈です。そして、点、線、面、それらから構成される図形はいずれも物理世界には存在できないものであり、それらを使って物理世界を測ったり、表したりすることは不可能、不合理だと考えるのではないでしょうか。
 でも、私たちはギリシャ以来その幾何学を不自然なものだなどとは思ってきませんでした。線に太さがあり、面に厚みがあったら、長さ、面積、体積の計算がうまくいかないことを十分承知しています。線に太さがあったら、線に囲まれた面積は線の内側か外側かで変わってしまい、大問題になります。幾何学的対象が存在し、しかるべき性質をもつためには、サイズのない点、幅のない線、厚みのない面が不可欠なのです。物理的な対象がいつでも確定した位置や運動量をもつと言えるためにはユークリッドの定義に従わなければならないのです。ですから、(確定的な)物理世界を描き出す基本的な枠組みとして幾何学を採用してきたのですし、それで不合理なことなどなく、大成功を収めてきたのです。これが標準的な説明ですが、物理世界の表現として採用した幾何学の特徴が「確定的」な性質を世界に付与したと言う方が適しているかも知れません。

幾何学での点、線、平面>
 ここでユークリッド幾何学の基本前提を再確認しておきましょう。以下に挙げるものはユークリッドの『原論』で述べられた前提です。従来、最初の定義より公準(postulate)の方が注目されてきたのですが、ここでは定義に注目し、定義の中で、最初の三つを挙げてみましょう。

1. A point is that which has no part.
2. A line is breathless length.
3. The ends of a line are points.
(これらのユークリッドの定義はHeathの訳を用いています。Sir Thomas Little Heath, The thirteen books of Euclid's Elements, Cambridge: Cambridge University Press, 1908)

 点にサイズがあり、延長をもつとします。その延長の半分も延長であり、かつ延長の半分は元の延長の一部分です。ですから、点は部分をもつことになり、定義1に反します。それゆえ、点にはサイズがありません。また、点にサイズがあれば線にもサイズ、つまり幅があることになります。でも、これは定義2に反します。よって、定義の1,2いずれからも「点にはサイズがない」ことが得られます。また、線を限りなく短くしていくと最後にはサイズのない点に至ります。この点に至ることは「サイズの消失」ですが、「サイズの消失」を(ヘーゲルのように)量から質への転換などと考えるべきではありません。
 点に部分がないことから、サイズがないことを証明しましたが、そこに隠れていた前提は「分割可能性」です。自然に「サイズがあり、部分がない」ことは、自然に「サイズがあれば、部分がある」という主張と両立しません。ここでの違いは自然が「分割できない」ためです。原子論と全体論の関係を再確認しておきましょう。原子論の下での原子の全体性と全体論の下での宇宙全体の全体性は異なっています。ユークリッドの定義を使った場合、原子が部分をもたないことから、分割性を使って原子がサイズをもたないことを証明できます。宇宙は当然サイズをもちます。しかし、それは部分をもたないというのが全体論の主張です。すると、原子論では「サイズがあれば、部分がある」という主張が正しいのに、全体論では「サイズがあって、部分がない」ことが正しいことになります。この両立しない理由は原子論と全体論が異なることを主張しているというより、分割可能性が両者を分けているといったほうが適切でしょう。分割可能性が成立する原子論ではそれを使って「サイズがあれば、部分がある」が証明されますが、全体論では全体は分割できないという主張から分割可能性が使えないのです。それゆえ、サイズがあるのに、「部分がない」と仮定しても矛盾は生じません。でも、分割可能性が使えないことの代償は大きいのです。
 点、線、図形に関する議論を次のような問いを使って見直してみましょう。

点から線はつくれるか。線を分割していくと点になるか。
線から面はつくれるか。面を分割していくと線になるか。
面から空間をつくれるか。空間を分割していくと面になるか。

これら問いは目新しいものではありませんし、参考文献を参照しなければわからないといった問いでもありません。でも、YesかNoかの解答とその理由は次のように分かれてしまいます。最初の問いへの解答は次のようになります。

[解答1]
点には部分がなく、それゆえサイズがない。サイズのない点をいくら集めてもサイズが生まれるはずがない。点からスタートする限り、サイズの生まれる原因や理由がどこにも見当たらない。だから、「延長のないものから延長は生じない」、「何ものも理由なしに存在しない」といった形而上学の原理に従って、上の各問いについての答えはNoである。

[解答2]
区間[0,1]が0と1の間にある個々の点からできているように、実数の集合は個々の実数を要素に含んでいる。点から線ができ、線は点に分解できる。線は点の集合であり、点は線の要素である。面や空間についても同様で、それゆえ、上の各問いについての答えはYesである。

([解答1]の真意は「0をいくら加えても0のままである(0 + 0 +…+ 0 +…= 0)」という命題を思い起こせばわかるでしょう。[解答2]は「サイズのない点を集めるとサイズ(長さ)のある線ができる」ことを納得できるかどうかが鍵となっています。ところで、0 + 0 +…+ 0 +…= 0は、+が無限個あるなら、無限の加法はなく、…が何か判明しないと何を述べているのか不明であり、その意図を察することは容易でも、見かけと違って意味不明な記号の系列です。)

 もっともらしく見える二つの解答を示されると、私たちはいずれの解答が正しいのか、そしていずれが古典的世界観で認められている解答なのか迷い始めます。二つの正反対の解答を見て、古典的世界観が明瞭に理解され、共有されているのではないことを示す証拠だと思う人もいるでしょう。さらに、古典的世界観より古い世界観がまだ残っているからだ、あるいは新しい古典的でない世界観が侵入したからだと想像する人さえいるでしょう。いずれにしろ、正解は[解答2]です。
 どれかの問いにYes、別のどれかにNoと、問いごとに異なる答を出す人は僅かだと思います。多くの人はすべての問いにYesかNoのいずれかを答える筈です。すべてYesと答える人の理由こそギリシャ人と私たち現代人を区別する古典的世界観の前提となっているもので、その理由の要点は「実数」概念にあります。実数を使って線を解釈すれば、その線上の点は一つの実数値に対応します。例えば、区間[0,1]の中にあるすべての点を取り出し、再度集め直すことによって、その区間[0,1]を再現できます。つまり、区間[0,1]にある点をすべて集めれば区間[0,1]をつくることができますし、区間[0,1]を限りなく分割していけば点である個々の実数値に到達できます。このように考える核心にあるのは正に「実数、そして集合論による点や線の理解」です。具体的にどのように点を集めるか、どのように線を分割していくかの細部が曖昧だという漠然とした不安は残りますが、点から線をつくることができ、線を分割し続ければ点に到ることは集合あるいは(集合論的な解釈を使った)実数に関する簡単な定理として証明できます。実数の性質は高校までに一応習ったことになっていますから、それを覚えていれば答えはすべてYesとなります。さらに、ギリシャ人と私たちが違う答えをもつ理由も併せて説明できます。私たちのように実数を使って点や線を考えるならYesが答えとなり、自然数を主に使って考えた(少なくとも実数は使わなかった)ギリシャ人なら答えはNoとなります。実数は連続体ですが、自然数は離散的でしかありません。これが解答のYesとNoの違いを生み出しているのです。
 上の問いはいずれも点や線に対応するものが物理的には時間や空間だと考えると従来の議論の自然な解釈になりますが、対応するものが物質の場合はどうでしょうか。物質は明らかにサイズや延長をもっています。デカルトでなくとも誰もそのように考えるでしょう。そして、物質を限りなく分割していくことはできないと誰もが認めます。実際、ギリシャの原子論は物質が限りなく分割できるものではなく、分割には終着があり、それがこれ以上分割できない、不可分の「原子」であるという仮説でした。それゆえ、原子はサイズをもつ「物質の最小単位」と認められ、原子からの物質の構成も有限の時間、手続きを通じた有限の原子数をもったものと考えられたのです。高々自然数を用意しておけばすべての話は何の問題もなく済んでしまうのです。自然の中のどんな物質もその数がどれ程多くても有限に過ぎないという確信は、物質についてのこの原子論に由来しています。(それゆえ、私たちは浜の真砂の数や見上げる夜空の星の数を莫大でも有限個しかないと信じているのです。)原子論が正しいとすれば、本文の問いはことごとくつまらない問いとなり、点である原子から「原子線」も「原子面」もつくることができますが、そこに興味を抱くことは何もありません。すべては有限の操作に過ぎず、点と線の本質的な区別がないからなのです。点にも線にもサイズがあり、その長さは単に程度の違いに過ぎません。それゆえ、Noと答えた人の答えとその形而上学的理由は時空については誤っていますが、物質についてはまったく正しいことになるのです。物質に関する原子論とその無限分割可能性は、したがって、両立しない概念であり、いずれも論理的に正しいわけではなく、その意味で正に仮説なのです。それゆえ、時空の量子化(=原子化)や物質の無限分割化はいずれも論理上は可能な仮説ということになります。

*私たちが物理世界と呼ぶ世界は時代や地域によって違っていること、そして、その違いは物理世界を表現する言語に依存し、とりわけ幾何学に依存することを述べてきました。私たちの感覚は特定の事柄には鋭いのですが、確定した連続的な変化など知覚だけでは何もわかりません。知覚的な連続性と数学的な連続性は全く異なるのですが、数学的連続性を使って知覚的連続性を解釈するしか手がないのです。