物(物質、物体)が存在することの証明

 「物が存在すること、それだけを証明する」ということは果たして可能なのでしょうか。それが実在論の基本だと盲信されているようですが、存在証明は具体的で、実証的なもの。いつどこにどのようにあるかを証明することになるのが普通で、ただ存在することだけを証明することはむしろ至難の技。「物が存在しないとすると矛盾が生じる」という帰謬法なら、ただ「存在する」ことの証明ができそうですが、それでは誰も納得しません。具体的な対象の存在を想定しない存在証明とはそもそも何の証明なのでしょうか。時空が特定されない「存在」の証明はそもそも存在概念に違反するのではないか、このような根本的な疑問を抱きながら、デカルトの「物の存在証明」を見直してみましょう。
 デカルトの方法的懐疑とは、知覚や思考の中に現れるすべてのものを一旦棚上げすることでした。それによって、彼は「思考する私」、つまり「精神としての私」を抽出するのですが、その際に彼が疑ったのは物でした。物の存在は、私たちが日常想定しているほど確かではなく、物が存在することはいくらでも疑える、これがデカルトの方法的懐疑の核心にありました。
 それでも物は、私たち自身の身体を含め、その実在を否定し切れません。知覚内容は私たち自身の精神がつくり出したのではなく、外界からの刺激であると思えますし、また想像力や情念の多くも物の存在を想定しないでは成り立たないように見えます。そこでデカルトは、方法的懐疑によって「考える私」の実在性をまず確立した後に、一旦棚上げした物の存在を改めて考察の対象にしました。そして、この世界には精神的な存在と並んで、物質的な存在があり、その明証性は神によって裏付けられているという結論に到達します。
 デカルトは物についての考察も、精神から出発し、その明証性に基づき物の存在を議論するという方法をとっています。デカルトは科学者でもあった訳ですから、物そのものから出発するほうが相応しいのでしょうが、彼はあくまでも精神からスタートし、物にたどり着く方法を選んでいます。『省察』のなかでデカルトは、有名な「蜜蝋の分析」を行ないます。蜜蝋は蜂の巣から取り出したばかりの時には、花の香が残り、色や形や大きさもはっきりとしています。これを火に近づけると、香は消え、色もかわり、形が崩れます。しかし、私たちはそれを始めのものとは異なった蜜蝋とは考えず、あくまで同じ蜜蝋であると思っています。これは、私たちが対象について認識する際に判断が介入していることを意味しています。生き生きとした蜜蝋としなびた蜜蝋は、感覚的にはまるで異なっていますが、私たちはそれを同じ蜜蝋と認識します。私たちは物質の存在を感覚によって直接知るのではなく、自分の判断を介して知るのです。デカルトによれば、こうして認識された物には二種類の特徴があります。一つは形、位置、運動等の空間的な広がりという特徴、もう一つは色や音や香や味など感覚的な性質と呼ばれる特徴です。そして、感覚的な性質は物の本質を構成するものではなく、本質をなすものは、空間的な広がり、つまり「延長」とそれに関連する諸特性のみである、と主張されます。
 デカルトによれば、この世界には精神と物という二つのものが存在し、神によって存在の根拠を与えられています。そして、精神とは私の意識、物とは私の意識の彼岸にある延長です。二つとも私の意識のなかに現れてきますが、その意識の中で、精神は私という存在を基礎づけるものであり、物は私の意識の随伴者として現れますが、延長という特徴によって、私の意識とは異なるものです。
 デカルトはこのように、物の存在についての予備的考察を行なった上で、その物の存在証明を展開します。デカルトは物の存在証明を四つの段階を通じて行います。第一に想像力との関連において、第二に感覚との関連において、第三に心身の実在的区別との関連において、そして最後は、狭義の物の存在証明です。
 人は想像することによって様々なものを意識します。この想像力が仮に私からなくなったと仮定すると、私は私でなくなるでしょうか。私から想像力がなくなっても、私は私であり続けます。したがって、想像力は私の存在にとって本質的なものではなく、物があることによって生まれるのです。
 感覚のうちに現れる物の存在は、私の意志に無関係ですから、それが外部からやってきたと推論することができます。でも、感覚は時に欺くことがありますし、夢の中で対象を認知することもあります。ですから、感覚のみによっては、物質の存在は証明できません。
 心身の実在的区別は、もっと確からしい根拠を物の存在証明に与えてくれます。心とは「考える」という実体、これに対して物の本質をなす延長は心の特徴とは明らかに異なっています。このことから、心と物とは互いに相容れない特徴を持っていると考えられます。
 物は心とは異なる。それは心とはまったく別の次元で独立した存在であることが可能です。
 デカルトは以上の議論をした上で、『省察』の第六で物の存在証明の総括を行なっています。それによれば、私たちは物の存在を証明するにも、やはり自分の思惟から出発するほかに方法はないと述べながら、物が私たちの思惟を超えた独立の存在であることを証明しようとしています。デカルトはあくまでも私の意識から出発し、考える私としての心の明証性を証明するとともに、それの相関者としての物の存在を証明しようとしました。この議論を通してデカルトが到達したのは、世界には心と物という異なった性格の存在が両立しているという認識でした。それらは各々特徴を異にしており、互いに似たところを持ちません。人間は考えるものとしては心の担い手ですが、延長を持った物としての特徴も併せ持っています。人間における心の部分と延長の部分とは、とりあえずは互いに交渉することがない別の存在とみなせますが、人間はそんなに単純なものではなく、心と身体とは時に密接な相互作用を行なうこともあります。これが『省察』の結論です。
 このようにまとめてみると、デカルトの物の存在証明は実に曖昧で、証明と呼ぶに値しないと断じる人さえいるのではないかと心配になりますが、証明したい気持ちはよく伝わてきます。私たちが意識する内容は意識の外から入ってくる入力、刺激であり、それが物なのだという捉え方は、今風には意識内容は「情報」で、その情報の担い手が物なのです。つまり、デカルトが証明したと考えた物は物理的な対象より広い物で、現在では情報、入力、刺激と呼ばれているものなのです。
 何かを意識するが、その何かが物。観念は意識の内にあり、意識が生み出したものですが、意識の内にないものが物。デカルトの議論の前提はあくまで意識の存在で、その意識の働きから、意識される限りでの物の存在をデカルトは証明しました。意識される内容が意識の外にあるという証明は曖昧でも、その言わんとする気持ちはわからないでもありません。現在の私たちには情報処理モデルを考えるとデカルトの証明がわかりやすくなるのではないでしょうか。心や意識は情報処理システムであり、そのシステムが処理する内容が入力、つまり物と考えられます。
 デカルトは「思惟する私」からスタートすることにこだわりました。なぜなら、情報処理システムとそれが扱う情報を比べると、システムが先になければ話が始まらないからです。でも、それでは「意識が意識でないものを意識するのはどうしてか」の説明はうまくできません。それに答えようとすれば、進化論的に(自然主義的に)物からスタートすることです。デカルトが意識からスタートしたのに対し、より自然的に、物からなる世界に生命が生まれ、それは物を情報として扱う特徴をもち、その情報処理のシステムが進化の結果として意識を生み出すことになった、というような理解も十分に可能です。これは自然主義の具体的な姿の一つであり、現在の私たちは入力、刺激、情報処理といった言葉を使って、進化論的な文脈の中で理解しています。