アウグスティヌス再考:時間を捉える(4)

 次のような質問をアウグスティヌスにした場合、彼はどのように答えるだろうか。

(1)天体の運動、ろくろの回転だけでなく、世界のすべての運動が止まった場合、私たちは時間について語ることができるのか。
(2)世界のすべての運動変化の速度が同じように速くなった場合、私たちは一日の経過も速くなったと言うことができるのか。

まず、(1)の場合。アウグスティヌスは、時間について語ることができると答える。アウグスティヌスは、時間の計測について次のように述べている。
「……私たちはその運動のみではなく、その静止をも時間によって測って、「それは運動した長さだけ静止していた」とか、「運動した二倍、あるいは三倍の長さだけ静止していた」とか、その他わたしたちの測定が確定したところの、あるいはいわゆる大体推定したところの結果を述べるのである。」
 私たちは、音が鳴っている間だけでなく、音が鳴っていない間も測ることができる。アウグスティヌスが述べているように、私たちは静止の時間も運動の時間と同じように、どのくらい長いかを把握することができる。運動のような変化の現象がみられなくても、静止した世界を認識している心がある限り、時間はなくなることはない。するとこれは、アリストテレスの、世界は静止していても、そこに心の動きがあるとしたら、そこには時間が存在するという議論と同じなのではないのか。確かに結果は同じであるが、アリストテレスの場合、心の動きを運動であると捉え、心に変化があることによって時間が存在すると考え、あくまでも運動の実在性を唱えた。しかし、アウグスティヌスの場合は、心の内に時間が存在するので、心がある限り、ほかのすべてが静止していても時間は流れているという考え方になる。では、「わたしたちの測定が確定したところの、あるいはいわゆる大体推定したところの」とは、どのようなことを示しているのか。これは、時間を計測するための私たちの基準のことであり、アウグスティヌスは、この基準を心の拡がりであるとしている。
 つぎに、(2)であるが、この場合も(1)の場合と同様で、私たちは、心の内に基準をもち、それによって時間を認識しているので、たとえ世界のすべての運動の速度が一日の経過に合わせて速くなったとしても、心は別のものに変わることなく同じ心であり、心の内では、そのままの時間が継続して動いている。よって、その心の内の時間によって、世界のすべての運動の速度が速くなったと感じることができるであろう。よって、私たちは、時間によって運動を測っていて、運動は時間の内で行われるということができる。
 さて、現在の私たちなら二つの質問にどう答えるだろうか。アウグスティヌスと同じに答える人は少ないのではないか。世界のすべての中に心も入り、すべてが停止すれば心の活動も停止すると自然主義的に心を捉える人が多数を占めるだろう。とはいえ、アリストテレス実在論的な時間はその後の物理学での時間や空間の議論につながり、アウグスティヌスの心の時間は意識や記憶の心理学的な時間の議論につながっていることに反対する人はいないだろう。