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アウグスティヌス再考:時間を捉える(6)

 日常生活では時間を使って運動を測る。では、時間は、どのようにして測られるのか。アリストテレスは運動を使って時間を測ると考えたが、アウグスティヌスは、時間を心の延長として捉え、心の内で時間が測られると考えた。彼は、過去、現在、未来がそれぞれ存在するということも、過去、未来は存在しないということも正しくなく、過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在すると主張する。過去のものの現在、未来のものの現在とは、現在に存在するものとしての過去、現在に存在するものとしての未来という意味。残された記憶、現れる期待というように、共に心に刻まれた印象である。そして、心の内で現在に対応するもの、つまり、現在のものの現在は、直観である。これら記憶、直観、期待は、心の内に刻まれた印象として、私たちの心の中に現在的に存在するものである。私たちはこれらの印象を測ることによって時間を測っている。印象は、記憶も直観も期待もすべて現在的に存在するので、運動し始める始点を記憶として心の内に刻み込み、残しておくことができ、その始点の記憶と終点の直観との間を測ることができる。そのため過ぎ去っているときに始点と終点を知覚できる。よって、時間を計測できる条件が揃っているので心の内に刻まれた印象を測ることによって、時間の計測が可能となる。これがアウグスティヌスの考えである。
 現在は幅を持たなく、一瞬のうちに過ぎ去って存在しないものとなるので、計測することはできないが、印象はすべて心の内に現在的に存在するので、過ぎ去って消えてしまうことはない。少しでも延びている時間は、過去、現在、未来と分かたれ、それぞれ記憶も直観も期待として心の内に刻まれるので、その中で幅を持つことができ、計測できる。アウグスティヌスは、私たちが過ぎ去っていくときに心に刻まれた印象を測ることによって時間を測っている、という結論を導き出した。
 アウグスティヌスは、心において時間を測ろうとしているので、この時間は心の内に存在し、心により測定される内的時間である。アウグスティヌスは、時間が心がなくても存在するような外的なものではなく、心と密接に関係した内的なものと考えている。過去、現在、未来という概念自体が心によって認識されるので、心がなければ存在しない。アウグスティヌスにとっては、時間は私たちの主体的な関与がなければ、存在すらしないもの。アウグスティヌスは私たちの心の内のこのような時間を「内的時間」と呼ぶが、彼はそれとは別に外的時間があるとは考えていない。つまり、時間とは内的時間であり、客観的な外的時間は存在しないのである。人間の心にある内的時間の他にあるのは神の永遠性だけと考えるアウグスティヌスには、人間の時間と神の永遠性の二つしか存在しない。私たちは時間の内にある自分というものを意識し、今までの行動を記憶し、今何をしているかを直観し、これから何をするかを期待する。この一連の行為が心の中で行われることにより、それぞれバラバラであった過去、現在、未来が連続的につながり、知覚は継続して意味のあるものとして理解できるようになる。時間は人間の心が生み出したもので、人間がいなければ存在しないものである。
 アウグスティヌスは、時間を心の内で測ると述べているが、時間を測ることなどそもそも可能なのか。アリストテレスは、時間は運動によって測られるとしたが、アウグスティヌスは、心が印象を測ることによって、直接時間を測ると考えた。この印象そのものを測るという行為が、時間を測っているといえるのか。そもそも印象を測るというのはどのようなことか。ある運動を始めから終わりまで測るとする。印象を測るとは、運動を始めたという記憶から、運動が終わったという直観(または記憶)までを測ることである。つまり、自分に体験された時間を、自分の内部で測るということである。
 アウグスティヌスは、時間の計測の問題を、自分の中で時間がどのように体験されるかという問題に置き換え、「体験の時間」を念頭に置いている。時間を測るときには、基準が必要である。例えば、より短い時間を基準にして、ある時間は、もう一方の時間の何倍であるというように表すことができる。しかし、自分に体験された時間は計測の基準となるものがない。つまり、自分の主観で時間の長さを決定してしまうのである。たとえ五分であっても、その時間が長いと感じたら長い、短いと感じたら短いということになり、実際の時間とは程遠いものである。これでは時間を測っているとは言えないのではないか。
 アウグスティヌスは、外から世界に生きるものとして人間を考えているのではなく、内側から世界を生きる、変化の内側にいるものとして人間を考えているのであろう。よって、客観的時間、外的時間を主観化したのではない。私たちはなにものかを体験したときに、印象を刻み込むことで、その体験を外的なものではなく、自分のものとするのである。
 時間を測るには基準が必要であると述べたが、では、心における時間の計測の基準とは何なのか。アウグスティヌスは、時間はある種の「拡がり」であるとしている。心によって時間を測るとは、刻まれた印象を心の拡がりに基づいて計測しているのである。この心の拡がりこそが時間を測る基準である。
 ここまでが標準的なアウグスティヌス解釈で、次は私の意見。拡がりをもつ、心に刻み込まれた記憶、直観、期待の印象内容は本当に心の内にあるのか。何かの記憶、何かの直観、何かの期待という時の「何か」は志向的な対象として外部世界にあるという表象主義が正しいとすれば、アウグスティヌスの主張は「何かの拡がり」を使っての時間の計測であり、その何かは心の表象として外にあるものなのである。私は表象主義者であるので、心は何かを表象し、意識し、意志するが、その何かは生活する世界の何かであり、心の中の意識過程ではないと考えている。意識の内容は心の中にではなく、生活世界の中に存在する。「私が妻を意識する、表象する」とき、その妻は私の心の中になどなく、私の横にいるのである。だから、記憶、直観、期待の内容が計測でき、生活に活用できるのである。