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Block Universe Model(ブロック宇宙モデル)と現在主義

 私たちはアウグスティヌスの時間について考察してきた。ここでは彼とは全く異なる考えを取り上げ、比較してみよう。それがタイトルにあるブロック宇宙モデルである。
 ブロック宇宙モデルは時空のすべての点に対して同等の存在論的な身分を与えるモデルで、ダイナミックに変化する時間像は物理的な実在とは独立に人間がつくり出したイメージに過ぎないと考える。時間の流れや持続は人間の心理が視点をもつことから生まれる第2性質に過ぎなく、実在するのは時空連続体である。では、ブロック宇宙に時制はないのか。ノートに平面座標を書き、そこに鉛筆で位置の変化を時間に従って記すとき、私たちの経験する時間の一部を使っているのではないか。確かに、任意の時点を「現在」にし、時間単位の長さを自由に選ぶという二点で実際に経験される時間とは違うが、鉛筆の運動の表現に「動く時間」が暗黙の内に使われているのではないか。だが、その使われ方は認識とその表現レベルのもので、鉛筆の動きそのものや動き方がどうであれ、記された筆跡に違いはない。描き方は多様でも、描かれた結果は同じである。そして、ブロック宇宙は描かれた結果だけからなっている。それゆえ、「動く時間」はブロック宇宙にはなく、それゆえ、時制もない。
 このブロック宇宙の考えと対照的なのが(アウグスティヌスについて述べてきた)時間の現在主義である。「実在するのは現在だけである」という現在主義の主張は上述のブロック宇宙の見解とは明らかに対立している。そこで、二つの見解を検討してみよう。二つの見解は極めて異なる立脚点に基づいている。現在主義は主観的な経験である「今」を拠り所にするのに対し、ブロック宇宙論は直接経験できない数学的モデルを基礎に置いている。
 現在主義者は現在の経験だけが存在し、それが他に還元することのできない変化の基本性質だと考える。だが、ブロック宇宙論はこの主観的直観を説明できないと批判する。現在主義によれば、時制が何を意味しているかを説明する唯一の方法は「今」が唯一存在している時間であることを主張することによってなされる。過去のものは「今」から過ぎ去り、未来のものは「今」が変化していくに過ぎない、過去や未来のすべての瞬間を含む客観的な時間についての話は誤りでしかない。時制をもつ事実はそれ自体が時制的でなければならず、時制のない解釈は誤っているというのが現在主義の本質的な主張である。つまり、現在主義は時制主義を含意している。「第二次大戦は既に起こった」を「第二次大戦はこの言明より以前である」という時制のない表現に翻訳することはできない。日本語や英語は時制なしに存在するものを描くことができなく、そのため現在時制は文字通り言語的な形式である。私たちの言語が時制なしに話すことを許さないなら、これは自然であろう。だが、忘れてならないのは、時制をもつ文が時制なしの文に翻訳された後でも、時制のある文がもっていた外部世界についての情報は何も削られないことである。
 代表的な現在主義者であるプライアー(A.N. Prior)はブロック宇宙を過去と未来が今存在している宇宙であると考えた。そして、そこからブロック宇宙は決定論的だと主張した。だが、今ある過去と未来という主張は現在主義のドグマの中でブロック宇宙を理解することであり、公平な理解でないことは明らかである。時空理論は過去と未来の現在の存在について時制を含んだ言明を主張しているのではない。スマート(J.J.C. Smart) は「未来の出来事がある」と言うとき、「それが今ある」ことを意味していないと述べている。
 ブロック宇宙では時制は主観的領域へ追いやられる。ブロック宇宙モデルはあくまでモデルであるが、モデルとして公共的に表現可能でなければならない。ブロックモデルは観察者がそのような形状を実際に観察するわけではないことから、時空が実際にブロックであることを含意していない。私たちはブロック宇宙を映画の各スライドのように想像するが、そこから決定論や異なる時刻の時間的な共在が導き出されるわけではない。ブロック宇宙が主張するのは時間の輪切りが空間のそれのように互いに関係し、その関係を表現することが可能であるというだけである。ブロック宇宙としての世界という見解は決定論も運命論も含意していない。それは決定論とも非決定論とも両立する。