古典物理学の描く世界(=大学で物理学を専攻する学生以外の人、つまり、ほとんどの人が共有している常識的だが、正しくない物理的世界観)

 科学革命の中でつくられ、20 世紀初頭までに醸成され、今でも高校まで教えられている自然観は次のようなものである。
<空間>
 宇宙空間には上下を区別するような特別の方向は本来存在しない。上下の区別ができるのはそこに何らかの物体(たとえば地球)があって、それに対する位置関係に区別、つまり方向があるからである。この特別の方向がないことが宇宙の「等方性」と言われる。また、宇宙には特別な場所がない。確かにいま自分のいる場所は特別な場所だが、それは自分にとって特別なだけである。宇宙の他の場所に生息する生物にとってはその生物の棲む場所が特別な場所になるが、宇宙自体に特別の場所はない。これが宇宙の「一様性」である。物理学は「区別する理由が何もないならば、同じだとする他はない」という考え方が好きである。このような「AB を区別する理由がなければ,AB は同じように成り立つ」という考え方を別の言い方で表現すると、「対称性によってAB は等しい」となる。つまり、対称性によって空間のあらゆる方向と位置は同等である。その結果、空間は無限に広いと結論される。なぜなら、端があることは一様性の考えに反するからである。また、宇宙の端があるなら、その先に何があるのか考えなくてはならなくなる。その何かも宇宙の中に入れてしまえば、宇宙は無限に広いことになる。
<時間>
 時間についても同様の考え方ができる。格段の理由がないなら、「時間は太古の昔も現在も同じように流れていく」と考えるのが自然だろう。つまり、時間の流れには一様性があると思われる。このように、19 世紀末の人々は「端や初めがあるとすると、端の先に何があるのか、初めの前に何があるのかわからないから、時間も空間も無限だと思うことにしよう」と考えるようになった。このような世界観が成立する背景には、数学の発達と結びついて、ニュートン力学が圧倒的に強力であり、その「器、入れ物」として一番分かりやすく簡単な時間、空間の見方が普及したのだろう。しかし、一様性や等方性は「特別な理由がないならば」という条件付きで認めることができる特徴である。空間や時間を、その中に世界が入る空っぽの器のように考えると、この特徴はもっともらしいが、現実の世界はそうではない。そのなかに「物」があり、それが運動変化している。運動や変化に対するこの時代の主流となる見方は-そしてそれは現在でもある意味で主流となる見方ではあるが-因果的決定論である。ニュートン力学もマクスウェルの電磁気学基本法則は微分方程式の形で書かれている。ニュートン方程式f = maという簡単な形で、これを解けば、ある時刻の位置と速度からそれ以後のすべての運動が決まってしまう。マクスウェル方程式はこれより複雑で解くのも大変だが、それでも初期条件が分かれば、その後の様子が一義的に決まってしまうという点では同じである。
 無限に広がる一様で等方な空間と始めも終わりもない一様な時間、そしてその中にある「物」は因果的決定論に従って運動する。これが古典物理学の描く世界である。
 「解析力学」を学ぶと、「力→加速度→速度→位置変化」といった素直な見方とは違って、抽象化された座標や運動量が登場する。このような視野の拡大の結果、空間の一様性や等方性、時間の一様性といった特徴を認めることになり、高校で学んだ重要な物理法則が導き出される。空間の一様性が運動量保存の法則、空間の等方性が角運動量保存に法則、時間の一様性がエネルギー保存の法則に関係している。(「物理的な対象に何らかの対称性があるとき、 それに対応して何らかの保存量の存在が導かれる、あるいは、物理系に連続的な対称性がある場合はそれに対応する保存則が存在する」というのがネーターの定理の主張である。)
 これに対して様々な疑問が湧いてくる。たとえば、空間の反転対称性の問題がある。ニュートンやマクスウェルの方程式は、ある運動が起こるとすると、 それを鏡に映した運動も、映画に撮って逆回しにした運動も同じように起こっても構わない。しかし、本当に世界がそのようになっているかには疑問がある。誰でもが、過去へ戻っていくことと未来へ進んでいくことは同じでないと思っている。過去と未来の違いは明らかで、「歴史」とか「進化」が事実ということなら、基本法則が時間を逆向きにした運動を許すことと折り合いをつけなくてはいけない。また、因果的決定論は、物理法則が世界の運動を支配しているなら、私たちが持っていると思っている「自由意志」と矛盾しているように思える。いずれにしろ空間や時間の一様性や等方性、因果的決定論など古典物理学の中核となる世界観は、ある意味で信念や信仰に過ぎず、正しいかどうかは慎重な検討が必要である。
<相対性原理>
 空間や時間に関係する重要な原理に相対性原理がある。ここでいう「相対性原理」はアインシュタイン(Albert Einstein,1879-1955)が発見した新しい原理ではなくて、「ガリレイの相対性原理」と呼ばれているものである。空間の一様性は特別な場所を否定するものだが、相対性原理は絶対静止空間の存在を否定し、物理現象を記述しようとする観測者に民主主義を保証するものである。少し詳しく説明しよう。
 私たちは物の見え方が相対的であることをよく知っている。自分の近くにあるものは大きく見え、遠くのものは小さく見える。この場合,同じところに持ってくれば大小ははっきりする。つまり物の大きさには絶対的な尺度があり、見掛けの大きさは自分からの距離とともに減少する。
 また、私たちは同じ場所かどうかが相対的だということも知っている。新幹線の同じ座席に座っていても、地球の上では1 時間に200km 以上も離れた場所に移ってしまう。駅のホームに降りてベンチに腰掛けていても、地球が自転しているから半日経てば初めの位置から数千キロ離れた位置に来ている。地球は太陽の周りを回っているから1 秒間に30km の速さで位置が変化している。こちらの方が自転速度よりはるかに速い。しかし、この速度は一体何に対する速度だろうか? このように位置や速度は他のものに対して相対的に決まるものである。ガリレイの相対性原理は、この位置と速度の相対性を認めるもので、力学現象に特権的な観測者(それゆえ、神の眼)はいないと主張する。物差しと時計を持った観測者のことを物理学では「座標系」と呼び、運動の第1法則の成り立つ座標系を「慣性系」と呼んでいる。私たちの日常的な感覚にしたがうと、時間の進み方はすべての座標系で共通で、物差しも同じものを使うことができる。相対性原理によれば、このような慣性系から他の慣性系(観測者)を見れば、お互いにそれぞれと一定の速度で直線運動している関係にあり、誰かが絶対的に静止していると主張する権利はない、ということである。宇宙が無限で等方的だと認め、物質を入れる空っぽの容器が空間であると思えば、ガリレイの相対性原理は受け入れやすい。
 ガリレイの相対性原理に従えば、速度はベクトルとして普通の足し算ができる。つまり、座標系Bで速度v’で動いている物体を、座標系Bが速度Vで動いてみえる別な座標系Aから見たらv’+ Vの速度で動いて見えるということである。お互いに等速直線運動する座標系を乗り変わることをガリレイ変換と呼ぶ。座標系Aでのある物体の座標をrと時間をtとし、座標系Bでのそれらをr’とt’として、式で書けば両者は

r = r’ + V t   t = t

の関係にある。時間は両方に共通である。初めの式をtで微分すれば速度の関係v = v’+ V が出てくる。