人間観の変遷(1):ルネサンスにおける「人間の尊厳」

 イタリアのルネサンスは14 世紀後半から15 世紀末まで100年以上続く。この文化活動の眼目の一つが「人間の尊厳」。ルネサンスは中世との違いが強調され、中世の思想がキリスト教の神を中心としていたのに対し、ルネサンスの思想は人間を中心とするようになったと捉え、多くの歴史家たちはこのルネサンスヒューマニズム精神を高く評価しました。さらに、ルネサンス啓蒙主義や近代思想へ導く知的進歩の最初の段階だと捉えました(例えば、ブルクハルトやジルソン)。これに対する批判はホイジンガの『中世の秋』で、そこでは中世と近代との連続面が強調されました。二つの異なる解釈を考える上で、「神の像」と「人間の尊厳」が重要になってきます。トマス・アキナスは「神の像」と「人間の尊厳」を同一視しました。それゆえ、ルネサンスの中心的主題である「人間の尊厳」は中世の「神の像」に由来しているのです。そこで、何人かの思想家の人間観に関する見方を垣間見てみましょう。
ヒューマニスト
 ペトラルカ(1304-1374)は、「人間の尊厳」について正面から述べていませんが、それでも、それ以前に比べればずっと鮮明に尊厳を表明しています。ペトラルカは、山の景観に圧倒され、アウグスティヌスの『告白』を思い起こしながら、次のように考えました。彼は地上の見事な景観に感嘆している自分が腹立たしく、人間は愚かにも、自らの高貴な部分をなおざりにして、様々なことに気を使い、空しい眺めに我を忘れ、内部にこそ見出せるはずのものを外に求めているのだと。それと同時に、彼は神が授けた心の高貴さに讃嘆したのです。
 このようにペトラルカは、人間とその心が私たちにとって真に重要な事柄であると力説しています。その際、彼はセネカキケロウェルギリウスホラティウスらを例に挙げながら、人間の内面の葛藤を解決するためには信仰の再生と恩恵による救済が必要であると述べます。この宗教的再生によって人間は内面的で精神的な尊厳を回復することができると彼は信じているのです。
 彼はアウグスティヌスと同じように内心の分裂に悩んでいました。それは高貴な心だけに起こることです。「心の高貴さ」とはキケロにおいては「人間の尊厳」と同義語であり、それは「理性」とも言われ、これによって物理的な世界を超えて、「自己の本性を忘れぬ思慮深い人間」となるように導くのは「内なる霊」の働きです。このようなペトラルカの思想は、ルネサンスにおける「人間の尊厳」を先取りするものでした。
 その後の人文主義や新プラトン主義者たちがこの考えを発展させていきます。でも、イタリアのルネサンスにおいて特徴的なことは、「人間の尊厳」が歴史や文化と深く関わりながら展開し、この世界での人間の創造活動として把握されるようになり、この世の名声や偉大さとして説明された点です。
 こうして、人間の本性や世界の中の人間の地位という観点から「人間の尊厳」が論じられるようになっていきます。14 世紀から15 世紀中葉までヒューマニストたちはペトラルカに典型的に示されているように、教会の信条を否定しませんでした。でも、神学と哲学とを思弁的に総合するスコラ哲学には総じて反感をもっていました。スコラ哲学とカトリック教会に対する批判は文献批評学からも起こってきました。15 世紀中葉にロレンツォ・ヴァッラ(1405-1457)が文献批判の方法を使って「コンスタンティヌスの寄進状」の誤りを指摘し、教皇の至上権に攻撃を加え、教会を批判しました。また、ヴァッラは『新約聖書注解』により欽定ラテン訳聖書ヴルガタの誤りを数多く指摘し、16 世紀の聖書文献学への道を拓きました。さらに、キリスト教ヒューマニズムとの関連ではペトラルカの思想をさらに進めて、キリスト教と異教思想との総合に反対し、理性と信仰、哲学と神学とは両立しないと主張しました。
 バルトロメオ・ファーチョ(1400?-1457)は、ヴァッラを批判した著作『人生の幸福について』を書き、その中でストア主義を擁護し、キリスト教的ストア主義の立場から真の善を把握しようとしました。その際、悲惨な状態の現世において優れた徳行に生きた後に、本性的に不滅な魂が天上の生活に帰還することが真の善であると捉えられ、ここから人間の本性と世界における地位が重要な問題となり、人間に固有な価値が問われました。ファーチョの著作はその動機が中世の修道院的なインスピレーションによるものでしたが、エラスムス著作と同じように本質的に人文主義的でした。
 マルスィーリオ・フィチーノ(1433-1499)はプラトンの全著作プロティノスの作品をラテン語に訳し、『饗宴』と『ピレボス』の注解書を書き、大作『プラトン神学』を著しました。彼はプラトン主義的な形而上学的体系を導入することによって、宇宙における人間の地位を確定し、そこからルネサンス的人間の尊厳を明らかにしています。プロティノスが実在を五段階に分けたのに倣って、彼は神・天使・魂・質料・物体に分けました。そして、身体と心からなる人間は、物体界と知性界との中間に位置し、神や天使の下にあっても、質料や物体の上に立っているとみなされました。したがって、人間の心は上なる知性界に関わり、神との類似性をもち、神に至ろうとし、善を達成しようとします。ここから、フィチーノは知性や理性が身体や物体に依存しないで、自由に選択し、物体界を超えて知性界に向かい、神という無限の完全性に近づくことを説き、人間の尊厳を明らかにします。
 フィチーノは彼が崇拝する「神のごときプラトン」に倣って人間の救済を「神の似姿」になることに求めています。人間の救済は心を身体から、理性を感覚から切り離すことによって神へと上昇する浮力を回復させることに始まります。この点ではカトリック教会の霊的な指導も役立っています。でも、彼は学芸や芸術、歴史や科学も精神的な世界に人々を導くのに不可欠であると説いています。
 ピコ・デッラ・ミランドラ(1463-1494)はフィチーノプラトン・アカデミーにおける若き同僚。彼はフィチーノの学説を多くの重要な点で修正しています。ピコは『人間の尊厳についての演説』の中で、宿命論と対決して人間の自由意志を強調しました。しかも、「人間の尊厳」を創世記1 章26 節の「神の像」との関連で重視しています。彼によると、神は人間を創造するにあたって、特徴を決めずに人間を創造しました。それゆえ、人間は自らが意志する通りに自己を形成する自由をもっています。ピコは人間の尊厳と卓越性を自由意志という特別な賜物に限定しています。キリスト教の伝統においては、人間の自己形成はただ人間の自由意志によるだけでなく、神の恩恵の援助を必要とするものでしたが、ピコにおいては自由意志だけで人間は自己実現していくと説かれています。自由意志を自律的に把握する点で彼はオッカム主義者です。とはいえ、ピコはキリスト教の恩恵の教理を否定したわけではありません。人間の自己実現がより望ましいものになるためには、神の恩恵が必要であり、それによって初めて人間の尊厳が実現されるのです。
 デジデリウス・エラスムス(1465-1536)は、オランダのロッテルダムに生まれ、パリ留学中にラテン語を学び教父の著作を熟読します。家庭教師となってイギリスに渡り、ジョン・コレットを通じて聖書批評の原理とキリスト教人文主義を学びます。また、トマス・モアとの友情を通じ国際人として活躍。彼は言語・表現・文体を愛し、その彼の言葉を通して古代的人間の叡知、古典的精神が再現されます。しかし、彼の精神の根底にあるのはキリスト教的なもので、古典主義はただ形式として使われ、彼のキリスト教的理想と調和する要素だけが古代の倫理から選び出されているにすぎません。エラスムスは人間の自然本性を神の創造に即して考察し、次いで人間の罪により創造の秩序が破壊される様子を描いています。人間は元来心と身体から構成されていて、身体がなかったら神のようになり、人間ではなくなってしまう。ですから、身体をもつ人間が心において神と一つになるようになることこそ人間の本来の姿があると考えています。
 エラスムスは人間を「霊」と捉え、それは「神の本性の似姿」であって、「神の精神の原型」にしたがって永遠の法が与えられている、と述べています。また倫理的にはキリストを「模範」とすることに唯一の目標を置いています。それはキリストが「唯一の原型」であり、神の像であるからです。エラスムスの『自由意志論』は、後にルターの『奴隷意志論』によって批判されましたが、そこでは人間について次のように説明されています。
(1)神は人間を「神の像」、「神の似姿」に造ったので、アダムが無垢のとき、理性も健全で意志も自由だった。実際、悪へと迷い出ることができるほど自由であった。
(2)ところが、罪が入ってきてからは理性、意志は自由を失って自力で善に向かうことができなくなった。意志が悪化し、弱さ・悪徳・冒涜が多く出現し、人間は洗礼の恩恵によって「再生した者」、「新しく造られた者」となっている。
(3)それゆえ、アダムの原罪により自由意志の力は弱くなっていても、人間の責任を示す自由意志は認められなければならない。自由意志は神の恩恵によってその本来の役割を果たすことができる。人間は恩恵と意志との共働によって善を実現できるのである。

 ルネサンスは人間精神の活動力と自発性を強調しました。この自発性こそ精神を神に似たものにします。でも、この時代のヒューマニストは総じてキリスト教を排斥した上で人間の尊厳を説いたのではありませんでした。むしろ、人間存在はその宇宙における地位と同様に、神の創造の賜物として授与されたものであり、それが罪によって損傷した場合にはキリストの恩恵によって救済されることが絶えず説かれました。こうした生き方が中世と同様に16 世紀においてしっかり保たれており、自律的な文化が始まるのは17 世紀の後半からでした。