デカルトの『情念論』は本当に情念について述べているのか?

 『情念論』(Les passions de l'ame)の執筆は1649年。デカルトスウェーデンのクリスティナ女王に招かれ、1649年10月にストックホルムへ移る。『情念論』は11月に出版されたが、5年前にファルツ選帝侯フリードリヒの皇女エリザベートに向けて執筆した論文がもとになっている。デカルトの情念研究の内容が本書。人間本性と情念の基本について論じる第1部、多種多様な情念を論じる第2部、特殊な情念を論じる第3部からなる。
 デカルトは、精神(=心)と物体とをそれぞれ異なった本質を持つ二つの別の実体と考えた。神を除けばこの世界には、この二つの実体以外には本質的なものは何も存在しない。世界は精神的な実体と物質的な実体とからなっている。精神は「考えるこの私(という意識)」であり、物質は「私(の意識)以外のあらゆるもの」である。精神と物質はその本質が全く異なり、似ているところが一切ない。それなのに、人間は精神と物質的な身体とが分かちがたく結びついているとしか思えない。人間は実に不可思議な存在というのがデカルトの結論。
 デカルトの心身関係の枠組みから見れば、意識や思考としての心の動きと延長としての身体とは、どこまでも交わることのない二本の平行線のようなもの。しかし、自分の心の中をよくよく観察してみると、心的なものが身体の動きと密接に関係していることに気づかされる。こうして晩年のデカルトは、心身の相互関係の研究に没頭するようになり、『情念論』は心身二元論の立場からの心と身体との関係についてのデカルトの研究結果ということになる。
 デカルトによれば心が身体を最も強く意識するのは何かを感覚する場合。デカルトは感覚を三種類に分ける。一つは、いわゆる五感を通じて外的な対象を感覚するもので、これが外部感覚。二つ目は、痛みや快・不快など自分の身体内部に起源するもので、内部感覚。三つ目は、恐れや欲望などで、これが「情念」である。
 心と身体とが互いに全く異なるものであれば、私が自分の心の中にこれらの感覚を感ずるのは、どのようなメカニズムによるのか。デカルトは心の働きの中に、「能動」と「受動」という原理を持ち込むことによって、この謎を説明しようとしたらしい。それによれば、心が心に対して能動的に働くときに意志が生じ、心が身体に対して能動的に働くときに身体運動をコントロールすることになる。また、心が心に対して受動的になるときには、純粋に知性的な対象についての認識が生じる。そして、心が身体に対して受動的になるときに感覚が生ずる。つまり、感覚は心の身体に対する受動態として生じる現象と考えられている。このことは、情念が Passion (受動)という言葉で語られていることに合っている、とデカルトは言う。だが、謎は残ったままで、デカルトの説明は答えになっていない。
 この疑問を残したままデカルトが持ち出すのは、松果腺についての有名な説。デカルトの時代には、松果腺はすでに解剖学的に確認されていた脳内の部位。デカルトはこれを、心と身体との交流点であると推測した。デカルトの理解していた脳は、大部分が空室からできていて、その中を動物精気と呼ばれる気体が充満している。脳の空室は前後に分かれていて、その間の狭い通路に松果腺がある。心身関係は空室内の動物精気の動きが松果腺を刺激することによって生じる。脳は神経によって身体のあらゆる部分と結ばれている。松果腺自体が心の座であるため、人間は脳と松果腺の働きによって、身体の状況を感覚として認知でき、その意思を身体の各部位に伝えて、思うような運動をさせることができる。これがデカルトの説明で、さすがに巧みである。でも、なぜ松果腺が心の座として身体と精神との間を媒介するのか、という肝心な点については、何の説明もない。
 さて、情念に関するデカルトの議論はどうなのか。情念は対象を知覚したとき、それを心の中で激しい感情として感じるとともに、身体のこわばりや心臓の動悸であるとか、身体的な反応が起こる。これは私の感覚が身体的な反応を引き起こすと同時に、私の心に働きかけて情念を呼び起こしているからである。
 このことから情念は感覚と深く結びついていることがわかる。つまり、身体を起源として心のなかに生ずる現象ということになる。その限りで感覚の一種だと考えられる。だが、それは通常の感覚とは異なり、情動とよばれる激しい感情を心の中に呼び起こす。デカルトによれば、さまざまな情念の中でもっとも根源的なものは「驚き」である。これは心が受ける突然の不意打で、不意打ちを受けた心は、それがよいものとして現れるならば「愛」の感情が、よくないものとして現れるならば「憎しみ」の感情が生まれる。愛と憎しみとはさらに、それを獲得したい、あるいは排除したいという「欲望」を生む。その欲望が満足されれば「喜び」が、そうでなければ「悲しみ」が生まれる。
 「情念」と言えば私が思い起こすのは「天城越え」。川端康成の『伊豆の踊子』、松本清張の『天城越え』の次に登場するのは、石川さゆりが唄う「天城越え」。その歌詞に出てくる「浄蓮の滝」は正に情念の滝。男女の情念の絡み合い、重なり合いがデカルトの『情念論』でどれだけ説明できるかと問えば、誰も何も説明できていないと言うだろう。「考える私」が出発点では「愛し、憎む私」は私の本質としては導き出せない。