ブッダの悟りと説法の内容

 ブッダの悟りの内容については種々の解釈がある。彼は開悟の後、かって一緒に修行した5人の修行者に最初の説法を行った(初転法輪)。その時の説法が経典として伝えられていて、初転法輪の説法には大悟した直後の生々しい息吹が反映されている。では、初転法輪ブッダは何を説いたのか。
 初転法輪は、1.中道 2.八聖道(八正道)3.四聖諦 4.五蘊無我、からなっている。 この教えによって5人の修行者は解脱し、「阿羅漢」になったと伝えられている。阿羅漢とは原始仏教では最高位の聖者。ブッダもその阿羅漢の1人。それでは1~4の内容をみてみよう。
 ブッダは欲望に従い快楽に耽る生活と苦行の生活の両方を否定し、いずれかに偏らない「中道」が悟りに導く実践的方法だと主張した。2の八聖道はその具体的実践内容として説かれたもの。3の四聖諦は人生苦に関する4つの聖なる真理。そして、ブッダは最後に4の五蘊無我を説いた。
 1の中道はわかりやすい。当時のインドでは苦行によって解脱が達成できると一般的に信じられ、それも厳しい苦行ほどよいと思われていた。激しい苦行を実践したブッダは、苦行は必要以上に心身を苛むだけで、悟りには至らないことを自らの体験を通じて知る。また、苦行の反対に位置する快楽も悟りに至る道でないことは、既に出家前の王宮で経験している。現代風に言えば、中道は苦楽の中間を行く合理的な道ということになる。
 八聖道は仏教の基礎となる考え方で、八聖道の実践によって苦の止滅に至ることができるとされている。八聖道は次の八つの事柄から成っている。
正見(しょうけん):正しい見解
正思(しょうし):正しい思索
正語(しょうご):正しい言葉
正業(しょうぎょう):正しい行為
正命(しょうみょう):正しい職業
正精進(しょうしょうじん):正しい努力
正念(しょうねん):正しい注意力
正定(しょうじょう):正しい精神統一
 四聖諦(よんしょうたい)とは四つの聖なる真理という意味で、次の内容。
苦聖諦:迷いにもとづく生存は苦であるという真理:人生の苦は四苦八苦からなる。
苦集諦:苦の生起に関する真理:苦の生起は喜と貧が伴い、いたるところで執着す          ることから起こる。
苦滅諦:苦の止滅に関する真理:苦は不変の状態ではない。苦の原因である渇愛を滅し去ると、もはや固執することのない境地(解脱)に至る。
苦滅道諦:苦の止滅に至る方法に関する真理。八聖道からなる。:八聖道の実践によって苦の止滅に至ることができる。
 四聖諦と八聖道は仏教の基礎。四聖諦のうち苦、集の2諦は事実をありのままに見たときの姿、滅、道の2諦は解脱についての考えである。八聖道は苦滅道諦そのもので、苦からの解放と解脱を実現するための実践法である。
 こうして、仏教の中心命題は「苦からの解放(精神的解放=解脱)」にあることになる。八聖道は仏教の核心で、仏教の目指すものが精神的苦しみからの解放であることは八聖道の全てが人間の精神的な活動そのものであることからわかる。生活水準を上げても精神的な苦しみから逃れることはできない。解脱のためには出家修行が基本であるため、<小欲知足>の生活をせざるを得ない。物質的豊かさからくる幸福より精神的安らぎを目指したところに仏教の特徴があるとともに、仏教の限界にもなっている。
 以上をまとめると次のようになる。四聖諦の真理を理解し、八聖道の実践を通し、心を清らかにする。そうすると渇愛に基づく感情的、感覚的な生き方から自由になることができる。そのことによって苦の生活から離脱し、解脱できる。自己を八聖道の実践を通し鍛えることによって解脱できる。これがブッダの説いた八聖道のエッセンスと思われる。八正道の実践(修行)によって理想的自己実現を説くブッダは、四諦、八聖道などの方法を使って修行することによって、本当の自分を作り上げ、苦しみや迷いからの開放をを目指した。ブッダの説く八正道で特徴的なことは何が正しいかをはっきりと規定していないことである。そこには各自が何が正しいかを考え、追求する自由がある。他の宗教のように、宗教的ドグマや教条によって規定されていない。このような自由と寛容さこそ仏教独特の特徴である。
 注目されるのはブッダ初転法輪における説法はこれだけではなかったこと。それが五蘊(ごうん)無我。普通初転法輪の説法では「1.中道2.八聖道(8正道)3.四聖諦」までとされている。しかし、5人の修行者に対するブッダの説法はさらに五蘊無我の教えを説いている。ブッダは5人の修行者に対してはまず中道、八聖道、四聖諦を説き、寝起きを共にしながら托鉢修行の生活を送った。この生活によって心を清らかにし、渇愛に基づく生き方を止めさせたと思われる。つまり、ブッダは5人の修行者の心がこの生活を通して素直にかつ清らかになることを待っていたと思われる。それが確認できた時、ブッダは5人の修行者に受戒して、弟子となることを許している。ブッダは機が熟すのを見て五蘊無我の教えを説いた。「中道、八聖道、四聖諦」は五蘊無我を説くための基礎的準備説法だったのである。五蘊(ごうん)とは色(かたちあるもの、身体)、受(知覚作用)、想(表象作用)、行(形成作用)、識(識別作用)の五つである。
 ここで注目されるのはブッダの「清らかな行いをしなさい」という教え。ブッダの説く教えは清らかさを重視する。それは単なる哲学や思想と異なる側面である。「清らかさを重視する」ことが後に仏教が宗教化する原因と考えられる。「中道、八聖道、四聖諦」は明晰で判明。そこからはブッダの説く教えが宗教であるとは思われない。人生は苦であると分析し、その人生苦からの開放を目指す「中道、八聖道、四聖諦」の教えは平易で明晰な実践哲学と言える。だが、この考えに到達するために6年間も苦しい修行が必要であったとは考えられない。このように考えると、ブッダの悟りの核心は五蘊無我の教えにあるということになる。
 ブッダは5人の修行者に五蘊無我について 次のように説く。
「修行僧らよ、いろ・かたちあるもの(色)は我(アートマン)ならざるものである。もしこのいろ・かたちあるもの(色)が我(アートマン)であるならばこのいろ・かたちあるもの(色)は病にかかることはないであろう。いろ・かたちあるもの(色、身体)について「わがいろ・かたちあるもの(色)はこのようであれ」とか「わがいろ・かたちあるもの(色)はこうあることがないように」となしえよう。しかるに修行者たちよ、いろ・かたちあるもの(色、身体)は我(アートマン)ならざるものであるから、いろ・かたちあるもの(色)は病にかかり、また、いろ・かたちあるもの(色)について「わがいろ・かたちあるもの(色)はこのようであれ」とか「わがいろ・かたちあるもの(色)はこうあることがないように」となしえないのである。」
 その後で、知覚作用(受)、表象作用(想)、形成作用(行)、識別作用(識)についても同じ論理で我(アートマン)でないことが説かれる。これらは自分の思い通りにはならず、すべて無常で、苦であることが説かれている。 そして、最後の結びの部分で 「修行僧らよ、このように観察し、教えを学ぶ聖なる弟子は、いろ・かたちあるものを厭い離れ、知覚作用(受)を厭い離れ、表象作用(想)を厭い離れ、形成作用(行)を厭い離れ、識別作用(識)を厭い離れる。厭い離れたとき、貪りを離れる。貪りを離れるから、解脱する。解脱したとき「わたくしは解脱した」と知る。すなわち、「輪廻の生まれは尽きた。清らかな行いは修められた。なすべきことをなしおえた。もはやこのような迷いの生存を受けることがない」とさとるのである」と言われている。
 五蘊とは物質的なかたち(色)、知覚作用(受)、表象作用(想)、形成作用(行)、識別作用(識)である。五蘊とは人間存在の5つの根源的要素である。蘊とは寄り集まってできたものの意味で、五蘊仏教の中心概念の一つである。ここでいう物質的なかたち(色)とは無機的物質ではなく、私たちの身体のことである。ブッダは人間存在を(色)、(受)、(想)、(行)、(識)の5要素(五蘊)に分析する。これらの5要素はたえず変化しており、自分の思う通りにはならない(コントロールの外にある)。我(アートマン)という霊的中心はそこには存在しない。我(アートマン)的実体や霊魂のようなものは無いにもかかわらず、人はそれがあると考え、それに執着する。そのため私たちには苦が生じる。それをありのままに正しい智恵によって捉え、我(アートマン)という考えに執着しなければ解脱できる、というのがブッダの教えである。