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ブッダの「五蘊」説は心の哲学(+倫理思想)

 禅定(座禅)が深まるとともに滅して行く意識は表層から深層に向かって次のように分類されている。まず、最も表層には眼、耳、鼻、舌、身(皮膚)、意(脳)の6根(感覚、意識器官)がある。これらは色(物質)でできている。その次に、この6根が外界から刺激を受け取る。この段階が受(知覚作用)である。次の段階で想(表象作用)が生じる。意識の原初的なものである想が生成する働きである行によって識(分別意識、認識)になる。これが「何かを知る、わかる」という認識の過程(入力情報の処理過程)についてのブッダによる説明である。五蘊説は知覚、意識を含めた独特の思弁的認識論と捉えることができる。
 ブッダ五蘊説は自己存在に対する認識の理論。外界からの刺激(情報)が身体(色)である感覚器官を通じて脳の中で処理され、認識や意識が生まれる過程を五つの要素に分解して説明したものである。
 古代インドでは意識の座が脳にあることはわかっていなかった。「行」という概念で意識生成の直前になんらかの処理、形成の作用が働いていると想像したものと思われる。現在、行は形成作用と訳されている。現在の脳科学では6根で受容された刺激は電気的インパルスとして神経を通り、脳に到達する。その後、脳内神経回路で6根に対応した認識(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、意識)が形成されると考えられている。
 視覚を考えてみよう。リンゴを見て、眼に生じた電気信号は脳内の視覚連合野に行き、形や色などの情報が生じる。この情報は更に高次連合野に行く。高次連合野では過去の記憶と照合され、それがリンゴであるかどうかが判断され、さらにどこにあるか(位置関係に関する情報)という情報の統合が行われる。視覚連合野での初期情報が生じる段階が受であり、 高次連合野で行われる情報の統合が行(形成作用)だと考えられる。このような脳内過程がわかったのは20世紀以降の脳神経科学のお蔭である。
 五蘊説は入力神経系とそこで認識が生まれるまでを五つの要素に分けて説明している。古代インドには大脳で何が起きているか調べ、測定する装置などなく、また大脳に関する科学知識もない。この説は坐禅という実体験(実験)に基づいて考えられている。今風に言えば、ブッダは大脳についての仮説を自らの体験に基づいて提出した科学者である。

1:色、受、想、行、識は常に変化しており(無常)、アートマン(我)のような変化しないものものは存在しない。霊魂のような不変の中心点もない。アートマンを仮定しなくても人間存在は五蘊で理解できる。つまり、五蘊無我説は無霊魂説である。
2:心と身体(色)は一体である。心身不可分である。これは仏教の伝統的考え方で、大脳神経系は身体の一部で、識は大脳神経系や身体と不可分である。これを仏教では伝統的に「色心不二」と表現している。大脳神経系を中心に人間を捉え、五蘊のうち色を身体、(受)、(想)、(行)、(識)の4要素は脳内事象だと考えれば、 五蘊=身心=大脳神経系ということになる。
3:現代の考えでは色は身体そのもの。受、想、行、識はすべて脳内現象に結びつく。ブッダの教説は心(脳)中心の教えである。この考えに立つと、五蘊無我とは入力神経系は外界からの刺激に無条件に(素直に)応答する科学的事実を言っていると考えることもできる。そこに不変の霊的な主体(アートマン)が存在し、支配している事実は見つからない。これは正にヒュームの主張を想起させる。
4:「人間とは何か?」という問いに対しインド伝統のウパニシャッド哲学は「人間は不生不滅の霊的な主体(アートマン)が内部に存在し、支配している個体存在である」と説明する。これに対しブッダはそのような霊的な主体(アートマン)を否定した。人間は脳で捉えることができると考え、一種の唯脳論を主張した。ブッダは何と物理主義者だったのである。
 このように考えると、五蘊説はむしろ現在でないとその正しい意味が理解できないように見えてくる。その核心は既に述べたように、ブッダの徹底した禅定体験によって見出されたものである。その意味ではブッダの悟りの契機となった坐禅は近代科学における実験に対応するのではないか。ブッダの禅定→悟り(真理)は、近代科学における実験→科学的知識の発見に対応するプロセスである。仏教ではこれを教・行・証と言ってきた。「教=理論、行=実験、証=実験による検証」と考えれば近代科学のアプローチとほぼ同じである。
 ブッダは宗教としての仏教の開祖だと思われている。しかし、上述のことから、彼は宗教家と言うより、「人間とは何か?」を究明した自己の究明の実験科学者だと言う方が適切なのかも知れない。
 ブッダの教説の真意を知るために、当時の宗教と考え方を見ておく必要がある。バラモン教は当時のインドの代表的宗教。バラモン教では祭祀が絶対的な力を持っている。祭祀が規則通りに行われるならば、神々も司祭者の意思に従わざるをえないと考えた。もし、司祭者が不注意に、或いは故意に祭祀の手順を違えるならば祭祀全体が無効になるだけでなく、災いの原因になる。バラモンを司祭者とする祭祀万能主義の宗教、それがバラモン教である。
 ここで無我という仏教の概念を理解するため<アートマン>について述べておこう。<アートマン>はウパニシャッド哲学の中心概念の一つ。漢訳の仏典では<アートマン>は「我」と翻訳される。<アートマン>は不生不滅の霊的な個体原理を意味する。仏典において<アートマン>は我と翻訳されているため現代の私たちが用いる「我」と同じ意味を持つと誤解されやすいが、そっくり同じではないことに注意すべきである。
 ブッダによって否定された我(=アートマン)とは霊的個体原理をいう。古代インド(B.C.800~B.C.600)のウパニシャッド哲学では霊的主体が個々人に存在することを主張した。<アートマン>は当時の哲学の一大問題であった。 <アートマン>はもともと息の意味を持った言葉であり、後に霊魂の意味を持つようになる。ブッダはその苦行時代に止息と呼吸法を研究している。このことは出家したブッダの目的の一つは当時の大問題であった「アートマンとは何か?」の問題を解決することにあったことを意味している。つまり、自己の探求である。しかし、彼の結論は「このようなアートマン(我)はいくら探しても無かった!」という無我の発見であり主張であった。
 哲人ヤージニャヴァルキヤは脳機能が分からなかったので人間の内部には神人(プルシャ)がいると誤解した。アートマンとは脳機能を誤解したもの。心は心臓に存在する内部の光であるという考えは古代各地にある。例えば、中国では古くから心は心臓にあるという考えが支配的だった。心臓とは文字通り心の臓器の意味である。このような考え方は世界共通の考えである。アートマンとは脳機能が分からなかった2000年以上前の古代インドの考え。
 アートマンの存在は当時のインド思想界で誰もが信じていた常識だった。驚くことにそれから2000年以上たった今日でも信じている人が相当いることである。人間存在は(色)、(受)、(想)、(行)、(識)の5要素(五蘊)で理解でき、我(アートマン)という不変の霊的個体原理をつけ加える必要がないことを意味している。それがブッダの無我の主張である。
 ブッダ心の哲学にはそれを引き継ぎ、科学研究にまでつなげていく継続的な研究の蓄積がなかった。西欧では多くの注釈家がプラトンアリストテレスの研究を引き継ぎ、それは中世を経由し、近世へとつながり、科学革命へと進んでいった。このような継続的な研究の蓄積がブッダの研究にもあったなら、デカルトを遥かに超える心の哲学が遥か以前に開花していたに違いない。フロイトの無意識に19世紀末のヨーロッパが驚いたよりはるか以前に遥か強く人類はブッダの無我に驚いたに違いない。
 脳(科学)と自我の問題に誰より早く気づき、その解決に倫理的な色合いまで付加するという見事な解決をしてみせたブッダはもっと科学的観点から研究されるべきなのである。脳(と身体)が存在し、自我の実在は幻覚に過ぎず、情報処理的な意識論の中で、自我を超えて、自我の非存在を悟り、解脱することによって自我論の超克として無我論を展開するというのは現在の哲学としても大変魅力的なアイデアであり、心の哲学としてブッダの詳しい注釈が求められている。特に、私たちの「自我」とブッダの「我」が正確にどのような関係にあるのか是非明確にしたいものである。