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ブッダの霊魂否定論

 雑阿含経の中でブッダは「仙尼」と呼ぶバラモン教の出家についての質問に対し、世の中には三種類の異なる師がいると述べている。そして、さらにブッダは独自の霊魂(我、アートマン)否定論を展開する。ブッダが雑阿含経「仙尼」で説く三種類の師とは次のような師である。

A師:現世では我(霊魂、アートマン)の存在を認めるが、死後はなくなると考える。
B師:現世にも死後にも我の存在を認める。
C師:現世にも死後にも我の存在を認めない。

ブッダの考える師はこの中のどれだろうか? ブッダの考えを見てみよう。 A師は現世では我(アートマン)の存在を認めるが、死後には我の存在を認めない。B師は現世、来世ともに我の存在を認める。ブッダはこれらを乗り越えたC師の考えこそ自分の説であると答えている。C師の考えでは、現世、来世とも我は存在しない。西欧の哲学、思想であれば、これは正にニヒリズムブッダの考えがニヒリズムの筈がないと思われるかも知れないが、この経典でブッダはと「C師の説は是即ち如来等正覚者の説にして、現世に愛断し離欲し滅尽し涅槃せり」と断言している。仙尼はこの言葉を聞いて混乱し、さらに疑いが増してしまう。ブッダは「疑いが増すのは当然だ。この考えは微妙な深い考えで理解しにくい。聡慧者のみが理解でき、凡愚の衆生は理解できない。」と答えている。つまり、ブッダは霊魂否定主義者なのである。

道元の霊魂否定論
 この問題に関してブッダより遥か後世の道元(1200-1253)は『正法眼蔵-弁道話』(対話形式の「弁道話」の巻は、仏教がどういうものかをわかりやすく具体的に書いてあり、『正法眼蔵』の最初に載せるのが最も適切と考えられている。)の中で次のように述べている。

 「生まれて死ぬことを憂い悲しむことはない。生死の苦しみから逃れ出るのに早道がある。世に言う心の本体が永遠不変であるという道理を知るのである。その説くところは、この身体は、生まれたら必ず死ぬのであるが、この心の本体は決して滅することはない。生滅の法則に押し流されない心の本体が自身にあることを知ってしまえば、これを本性とするのであるから、今の身は仮の姿となる。ここに死んではかしこに生まれ、一定していない。心は永遠不変で、過去、現在、未来にわたり変わらない。このように知るのを生死の苦を逃れたというのである。この心の本体の永遠不変である趣旨をよくよく知るべきである。」

 このような主張は成程と思わせるのだが、本当に仏教が言わんとすることで、道理にかなっているのだろうか?

 「今言われた考えは全然仏法ではない。先尼外道(せんにげどう)の考えである。先尼外道の考えは、「自分の身の中に一つの霊魂(たましい)がある。その霊魂は、何かに出会うと、好き嫌いを弁別し、是非を弁別する。痛い、かゆいを知り、苦楽を知るのは、すべてこの霊知の力である。ところが、この霊知の正体は、この身が死んでなくなる時、中身だけ抜け出して別の所に生まれ変わるから、ここで死んでなくなったと見えても、別の所で生まれるから、永久になくならず、不変である」と主張される。先尼外道の考えは、このようなものである。この考えを仏法だとするのは、瓦や石ころをつかんで黄金の宝だと思うよりももっと間抜けなことである。愚かな迷いの恥ずべきことはたとえようもない。大唐国の慧忠国師が深くいましめている。今、心は不滅で、相(かたち)だけが死んで行くという間違った考えを、諸仏の妙法だとし、生死(まよい)の根本原因を作っておいて、それで生死の苦を逃れたと思うのは間の抜けたことではないか。」

 このように道元は不生不滅の霊魂をはっきり否定している。これがブッダ以来の仏教の正統的な考え方である。先祖供養などに付随した霊魂肯定論は仏教由来の考え方だと思いがちだが、仏教本来の考え方とは違う。
 ブッダの無我観は仏教を特徴づける考え方であるにもかかわらず、ほとんど注目されていない。この教説は既述のようにブッダの悟りの核心をなすもの。最も古い仏教経典とされるSN(スッタ・ニパータ)の全編を通しての主題は「無我」である。SN915 -916詩に次のようなブッダの言葉がある。

とうていわく「修行者はどのように観じて世の中のなにものをも執することなく安らいに入るのですか?」 (ブッダ)は答えた「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟の根本>をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くため常に心して学べ」 (デカルトのコギトを想起させる文言である。)

 原始仏典「ダンマパダ(DP)」154詩はブッダが悟った時の歓喜(よろこび)の詩だと伝えられている。ダンマパダ(DP)」154 詩は次のような詩である。

「私は、苦しみの基盤である「自分」という家の作り手を探し求めて、幾度も。生死を繰り返す輪廻の中を得るものもなくさまよい続けた。何度も何度も繰り返される生は苦しみである。だが家の作り手よ、お前は見られたのだ。もう二度と家を作ることができない。 その垂木はすべて折れ、棟木は崩れた。心はもはや消滅転変することなく、渇愛の終息へ到達したのだ」。

 求道の旅について、ブッダは「苦しみの基盤である「自分」という家の作り手を探し求め、得るものもなくさまよい続けた。」と言っている。これはブッダの問題意識がアートマン問題を中心とする「苦しみの原因である自分とは何か?」を解決すること、 即ち、自己究明にあったことを示唆している。その結論が「五蘊無我の悟り」であった。
 最近は「無我」より「非我」が正しいと主張する人たちがいる。ブッダは経典中(無我相経)で「修行僧らよ、いろ・かたちあるもの(色)は我(アートマン)ならざるものである。」と言っている。 これは(色)は我(アートマン)ならざるものである、即ち非我(アートマンではない)と言っているのであり、無我(アートマンがない)と言っているのではないと言う考え方である。(「である存在」と「がある存在」の区別というアリストテレスの存在論の否定的なブッダ版と言えないこともない。)ブッダは色だけでなく、受、想、行、識夫々についてアートマンではない(非我)と言ったのであり、アートマンは存在しないと言ったのではないという主張である。しかし、ブッダ五蘊以外にアートマンは存在すると言ったことは一度もない。自己存在は五蘊で説明できる。五蘊の各成分は非我(アートマンではない)である。色、受、想、行、識夫々はアートマンではないならば、その総体である自己はアートマンではないと結論できる。結局のところ自己はアートマンではないし、アートマンの存在は確認できない。 従って自己はアートマンではない(=無我)と結論できる。実際、アートマンは何処かにあると主張した仏教徒はいない。雑阿含経「仙尼」はそのことを主張している。無我の方が積極的で強力な主張になっていて、実証的な脳科学的真実と合致する。

 ブッダの霊魂否定論の「霊魂」が私たちが現在理解している「自我」と同じかどうかという問題が相変わらず残ったままである。それはアリストテレスの霊魂が心理現象だと割り切れるかどうかという問題に似ている。私たちの「自我」概念がデカルト以降のものであるなら、ブッダの我や霊魂は私たちの自我意識とは違っている筈である。純粋理性である天使が存在しないという程度の話なのか、それとも自我の否定によって西欧近代の主体的な人間理解を超越するものなのか、興味深い問題が残ったままである。また、解脱は一人の個人の問題であり、そのための無我であるから、「自意識、自我、私」の彼岸になければならないが、それは現在の私たちには主体的な人間性の否定ということにならないのだろうか。