大乗仏教(2):知識から宗教へのパラダイムシフト?

 かつてトーマス・クーン(Thomas Kuhn)は『科学革命の構造』(1962)でパラダイムシフトを提唱し、科学の歴史的変化は漸進的ではなく、突然の根本的なパラダイムの変化にあると主張し、科学史に革命をもたらした。

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(Thomas Kuhn)

 科学が宗教化することは比較的容易で、科学主義的な宗教は決して矛盾する存在ではない。だが、宗教が科学化することは人類史の初期を除いてほぼ不可能。というのも、宗教は理論ではなく、超自然的なものを必ず含み、それが実証的な科学と矛盾するからである。そのような表向きの理由もさることながら、本音を言えば、宗教の説明は数学的でないというのが乱暴だが、わかりやすい理由である。
 宗教のもつ超理性的な主張と個人の生き方への指示や強制のミックスは時に私たちの心を捉えて離さない魔力を生み出す。心を掴み、麻薬のように私たちを虜にする不可思議な力を宗教はもっている。科学は合理的に理解し、納得する必要があるが、宗教には理解も納得もいらない。ただ一心に信じるだけ。実に簡単明瞭で、ブッダの過酷な修行など不要である。科学が信じるだけの活動なら、簡単に超自然的なものを許してしまう。実証的に検証・確認できないものやことを信じることによって認めるならば、その知識は簡単に信仰に変わる。魔術師のように巧みに信仰に変える術は詐欺のテクニックと紙一重である。

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大乗仏教を体系化したナーガールジュナ(龍樹)、奈良国立博物館

 ブッダ原始仏教大乗仏教へと正にパラダイムシフトする。私にはニュートンによって完成する科学革命など足元にも及ばない、途方もないシフトに思われる。科学理論のシフトでも、科学観のシフトでもなく、「科学から宗教へのシフト」と呼んでもよいようなシフトだからである。この途方もないシフトが仏教のもつ他に類のない歴史なのである。
 原始的な宗教であれば、それが科学にシフトするというのが人類の歴史だったと言っても誰も驚かない。アニミスティックな原始宗教を否定し、科学的に現象を知り、理解しようというシフトが起こることは自然なことで、それは歴史的な事実だった。素朴な自然崇拝の宗教が科学にシフトし、人々が科学精神を手に入れ、世界を合理的に理解し始める。だが、ブッダ仏教は既に十分に論理的、科学的な内容をもったものだった。そのため、彼の仏教大乗仏教によって宗教化されなければ生き残ることができなかった。
 ブッダ仏教には物語がない。あるのは修行の戒律とマニュアルである。宇宙の存在や歴史の壮大な物語が一切ない。神が存在しないのだから、神の物語も当然ない。物語だらけの他の宗教とブッダ仏教との際立った違いである。聖書もコーランも大乗のお経も架空の物語に溢れている。物語を理論にすることはできないが、理論から物語をつくることは易しい。「信じる」ことは「知る」ことと違う。知るには知識と理屈が必要だが、信じるために必要なものは信じる主体の決断だけである。もっとも基本的な事柄が信じることによって手に入れた事柄であるなら、それは信仰であり、宗教的である。基本的な事柄が実証的に知った事柄なら、それは科学的である。
 人がなることができない神や仏を積極的に認め、それら神仏を信じ、すがることによって苦から解放されるという大乗仏教は、果たして現在の日本を救う宗教なのだろうか。僧侶についての批判は実に数多く、多くの批判は的を得たものだが、大乗仏教そのものへの批判は少ない。大乗仏教が科学から宗教への整合的なパラダイムシフトだったのか、それともいい加減な妥協の産物だったのか、誰にもわからない。私にはその疑問が消えないのである。