大乗仏教(3):宗教革命

 原始仏教から大乗仏教への転換はとてつもないパラダイムシフト。それは、科学の中での革命などではなく、科学から宗教への転化と表現できるような、知や情のカテゴリーを乗り越える革命だった。大乗仏教仏教だとすれば、ブッダ仏教仏教ではなかった。実際、ブッダ仏教は宗教性を否定するものだった。どのようにブッダの非宗教的な仏教を宗教化する脚本がつくられ、人々の理性を麻痺させるに十分な宗教物語のシナリオが用意され、宗教団体としての存続の企みが練られたのか、それら謎への関心はすこぶる高く、尽きることがない。
 宗教、倫理、哲学、思想、そして文化はいずれも時間的、地域的なもので、不変的でも普遍的でもない。それらは無常なもの。そのため、それぞれが地域や時代によって異なる歴史をもち、それが理解できないと宗教や思想はわからないものだと了解されてきた。それは実は宗教や思想の特徴ではなく、欠点であり、複数の異なる立場や党派の乱立は何かが足りない、欠けているという不完全性の証拠に過ぎない。だが、歴史を辿ることによってしか宗教や思想は解明できないと思い込むことが近代以降の習い性になっている。
 むろん、普遍的な知識も歴史的な側面をもつ。というのも、その知識すべてが同時に同じ場所で得られたのではないからである。知識の内容は論理的でも、その獲得は因果的なのである。だから、ユークリッド幾何学形成の因果的、歴史的特定は有意義だが、ユークリッド幾何学のシステムは歴史的ではなく、論理的でしかない。
 普遍的でない知識はその歴史がその知識の本質にくい込んでいる。普遍化したければ、知識の脱歴史化、つまり、理論化を目指す必要がある。どんな宗教も自らの教説が完全で不変的だと信じて疑わない。だが、客観的に不変的かどうかは誰にもわからない。自ら選択した不変性を信じるところに宗教の宗教たる所以があるためか、宗教が局所的なものに過ぎないことを疑う信者はまずいない。
 部派仏教における聖者への道を見てみよう。それは三学道と四向四果によるブッダへの道と言われている。部派仏教では出家修行者が悟りを開くまでの過程を3段階の三学道と4段階の四向四果に分けて説明する。次の二つに分類される煩悩を断ち切ることによって悟りが得られる。
1.見所断の煩悩:
理知的に理解できれば断ち切ることができる比較的克服し易い煩悩。
2.修所断の煩悩:
単なる理知では滅尽不可能な根深い煩悩で、貧、瞋、痴、慢の4つの煩悩。禅定三昧を修行して真理の観知を繰り返し行わないと断ち切ることができない。
 修所断の煩悩を断ち切る修行法には次の三つがある。
1. 不浄観: 死体が次第に腐敗し、白骨化するまでの姿を観想することで性欲を制御する。
2. 持息念: 呼吸法の修行をする。
3. 四念住: 身体は不浄である、感受は苦である、心は無常である、すべての事物は無我である、という四つを意識し、修行をする。
 また、三学道は次のようにまとめられる。
見道:見所断の煩悩を断ち切る過程
修道:修所断の煩悩を断ち切る過程
無学道:見道、修道の修行を完成し、これ以上学ぶことがない境地
 不浄観、持息念、四念住などの修行法や三学道は修行法とそのプロセスを指し、四向四果はその修行の成果である。このような分類に基づく修行によって実際に四向四果が得られるかどうかは甚だ疑問だが、ここに述べられた悟りへのプロセスは論理的かつ具体的で、これが部派仏教の特徴になっている。
 部派仏教の最高位の聖者は阿羅漢(あらかん、アルハット)。原始仏教では阿羅漢はブッダと同じ意味だった。ブッダが五比丘に教えを説いた(初転法輪)のち、五比丘もゴータマ・ブッダと等しく悟りの境地に至ることができた。ブッダもこの6人の阿羅漢の1人であり、みな平等である。このように阿羅漢は部派仏教時代までは仏教の最高位の聖者とされ尊敬されていた。凡夫から阿羅漢への道は、もっぱら煩悩を断ち切る修行をすれば到達できる道であり、万人に開かれていた。
 しかし、阿羅漢への道は開かれていても、在家信者には閉ざされている。在家信者はせいぜい第3果である阿那含(アナゴン)果までしか到達できない。それ以上の阿羅漢に達するためには出家して僧として専門的修行をすることが必須だった。もともと阿羅漢はブッダと同じ悟りの段階に達した者だったが、時代が経つにつれてブッダは他の阿羅漢と違う特別な存在として神格化され、凡夫からブッダになることは不可能になっていく。
 説一切有部によればブッダは菩薩しかなることができない。その菩薩は六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)の修行を際限なく行い、その上、42億もの多数のブッダたちを供養する。それによってブッダの悟りを得て大慈悲の行いをする無量の徳が蓄えられる。さらに何回も地球に生まれ変わり、無限大の時間の間修行を重ねる。すると、ブッダだけに備わる32の優れた肉体的特徴が獲得される。この修行をした菩薩は全ての生き物に利益を与え、大慈悲を行って倦むことがないようになる。ここに描かれる菩薩は利他性と自己研磨の極限的存在。この利他性と自己犠牲の精神は大乗仏教の菩薩の理念として受け継がれる。
 凡夫から阿羅漢への道は出家修行者にとって超エリートの道。出家して修行を積んで阿羅漢になることは非常に困難だが、不可能ではない。それに対し、菩薩からブッダへの道は人間からは到達不可能な道。このようにブッダは時代とともに阿羅漢から引き離され、到達不可能な全知全能の神に等しい存在に神格化されていく。仏教には二つの教えがある。一つは「ブッダの説いた教え」、もう一つは「ブッダになる教え」。ブッダ在世中は誰でもブッダになることができた。しかし、ブッダの死後時が経つにつれ、人が悟りを開いてブッダになることは不可能になった。これは仏教がいわゆる宗教になったことを意味している。
 ブッダ原始仏教には神や仏は存在しない。その本質は合理的な「自帰依」と「法帰依」にあった。ところが、仏教は紀元前後に大きく変容し、宗教になる。そして、生まれたのが大乗仏教大乗仏教ブッダの教えである原始仏教と異なり、宗教である。では、その宗教とは何なのか。
 宗教の定義:宗教とは超越者(=神、仏)への信仰。超越者と祈りと信仰、儀礼によってつながることができ、心が浄化され救われるという教えとそれを信じることが宗教。
 キリスト教イスラム教、ヒンズー教大乗仏教などほとんどがこのタイプである。一神教では、全知全能の唯一神が世界を創造した。世界は神の意志と摂理のもとに動いていて、それを信じる信者は祈りや儀礼を通して神と接触でき、神からの恩寵や、心の浄化、救いを受けることができる。一方、ヒンズー教大乗仏教神道は多数の神々を信じる多神教である。
 次のような擬似定義「宗教とは清らかで真実なる自己(=本来の自己)を求めて歩む人間の営為である」を考えてみよう。この擬似定義では定義のような超越者(=神)は必要でない。擬似定義は、特に「自己究明」を目的とする禅仏教にはぴったりの定義。既に見たように、ブッダの創始した仏教はこの擬似定義に合致する。大乗仏教は擬似定義の原始仏教が定義の宗教に転化したと考えることができる。また、唐代に生まれた禅宗大乗仏教が擬似定義の宗教(ブッダ原始仏教)に先祖帰りしたと考えることができる。
 大乗仏教誕生の理由については謎が多く、大乗仏教興起の原因はよくわからない。原因として次のことが挙げられる。マウリア王朝時代アショーカ王は熱心な仏教徒となって仏教教団を保護した。それまで小集団でしかなかった教団もアショーカ王の庇護のもとに大きく発展した。大きくなった教団は分裂を繰り返し部派仏教が成立する。この部派仏教僧団は大きくなり専門化したため、仏教が神学化し難解になった。部派仏教を含め伝統仏教はあまりにも禁欲的である。また基本的にはエリートである出家僧(個人)の救済しか説かない。ブッダ以来、仏教は在家信者は否定しないが、基本的には出家修行者のための教えである。大勢の一般民衆(衆生)を救うという思想ではない。このような仏教のままでは巨大化した仏教僧団と支持母体としての一般民衆の間の距離は開く一方。エリート出家僧の仏教から大衆のための仏教(個人救済から大勢の衆生を救済する宗教へ)の変化は時代の要請だった。紀元前後からインドに新しい宗教運動が起こる。アーリヤ人の宗教であるバラモン教と先住民の信仰との融合が起こりヒンズー教が形成され始めたのである。
 ヒンズー教は広範な民衆の支持を受け急速に発展する。ヒンズー教は信仰を身近なものにし、宗教の誕生となった。ヒンズー教で説くように偉大な神々を信仰すれば救われるという教えの方が、神学化した部派仏教の教えより簡単明瞭でわかりやすい。祈りによって神と繋がり、神の救いを受けられる。紀元前後インドではヒンズー教がこのような教えの下に民衆の支持を受け出す。遂には仏教をも圧倒。このようなヒンズー教の興隆に影響されて仏教も宗教化する。これが大乗仏教大乗仏教ブッダを神格化し、ブッダの前世や在家仏教徒を想定することによって、菩薩という新しい理想的宗教者像を創り出した。
  古代インドでは科学的な合理思想はまだ存在しない。彼らにはブッダの「自帰依」と「法帰依」の教えはなかなか理解されなかったのではないか。ブッダの死後、教団の事実上の指導者となったのは、ブッダ十大弟子の一人マハーカーシュパ(摩訶迦葉)と考えられている。マハーカーシュパもバラモン階級の出身。ブッダ十大弟子のうち実に6人がバラモン階級の出身。指導者がバラモン階級の出身で、教団の比丘の大多数もバラモン階級の出身。このような時代に仏教教団内で起こったことを推測するのは難しいことではない。
 ブッダの死後400年ほど経った紀元前後に仏教に革命が起こり、大乗仏教が誕生する。まさに宗教革命。仏教パラダイムがシフトし、宗教に変わる。これほど大きな革命は人類の歴史の中ではないのではないか。大乗仏教ではブッダや菩薩を神にも等しい存在だと捉える。大乗仏教は、そのようなブッダや菩薩を信仰することによって救われるとする宗教である。大乗仏教は「自帰依」と「法帰依」を説いたブッダの本来の教えとは大きく異なる。多くの大乗経典(華厳経法華経大般若経など)の中ではブッダは神通力によって眉間の白蒙や足の裏から宇宙を照らすような強烈な光を出す超能力を持つ神格として現れる。もはや人間ブッダはいない。
 大乗仏教が大乗経典と共に初めて出現した時、部派仏教の方はこれを仏教ではないと無視した。議論をして心を興奮させることは僧の戒律で禁止されていた。教団の和合を破ることは五逆罪の一つであり、仏教では堕地獄の重罪だったからである。部派仏教自体もブッダの教法を変容させて信仰化への道を歩んでいたので大乗仏教を批判する資格を失っていたと考えられる。多くの部派仏教の出家僧は自分達が仏教の本流であると信じ、ブッダ以来の戒律をまじめに守り修行に専心しているという自信を持っていたと思われる。しかし、改変されなかったのは戒律だけでブッダの理法は部派仏教においてもバラモン教に近い方向に変容していた。
 仏教の宗教化は大乗仏教からさらに進み、7、8世紀には密教が生まれる。ブッダが禁じた呪術や性欲までも肯定するようになった密教仏教ヒンズー教化。次々に変容したインド仏教はインドに侵入したイスラム軍によって1203年ヴィクラマシラー寺院が徹底的に破壊されるとともに滅亡への道を辿った。その後、ブッダヒンズー教のビシュヌ神の9番目の化身とされることになる。これは仏教が多くの宗教内でのパラダイムシフトを経て、その極限において独自の存在意義を失い、ヒンズー教に吸収されたことを意味している。