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大乗仏教(6):修行僧から菩薩へのシフト

  大乗仏教の別名は菩薩乗、菩薩中心の仏教である。既に見たように大乗仏教の経典の舞台に集まる聴衆は主に菩薩。そこでの主役は修行僧ではなく、菩薩。これは仏教史における大きな変化である。原始仏教では出家修行者が主役で、ブッダの開いた悟りを目指す人が俗世間を棄てて出家し、修行僧の集まり僧伽(サンガ)に入り、集団で修行に専念する。それがブッダ以来500年近く続いた原始仏教の伝統である。
 修行僧が出家し、ブッダの「悟り」を求めて修行するのがエリートの道。だが、大乗仏教ではこの道は声聞(しょうもん)道として軽視されるようになる。法華経維摩経ではブッダの弟子たちが笑い者にされる場面さえある。大乗仏教ではブッダ以来の伝統をもつ部派仏教の出家修行者は保守的な「小乗仏教」の信奉者とされ、舞台の脇役に追いやられる。「小乗」とは小さな乗り物、「大乗」とは大きな乗り物。「大乗」の方が大勢を救うことができるという優越の意味をもつ。

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観音菩薩立像、東京国立博物館

 菩薩中心の思想を主張するのが大乗仏教。では、大乗仏教になって突然浮上する菩薩とは何なのか。菩薩(ボーディサットバ)とは菩提(さとり)を求める者、求道者という意味。原始仏教や部派仏教では修行の結果、悟りを得たものを阿羅漢(あらかん)と呼んだ。ブッダも阿羅漢の一人で、他の阿羅漢と同等と考えられていた。だが、ブッダの死後時が経つにつれ悟りの体験と伝統が失われていき、ブッダの悟りを体験することは普通の出家修行者にはとうてい不可能と考えられるようになる。多数の輪廻転生を経た修行によっても達成できるかどうかわからないものだと見做されるようになった。それに伴い、慈悲深いブッダの偉大さと天才が強調され、神格化されるようになる。
 インドには輪廻転生というウパニシャッド以来の伝統思想がある。人間は死ぬが、新しい生命が子供として生まれる。しかも、生まれた子供は死んだ両親や祖父母に良く似ている。これは他の生物にもあてはまる。現代の生物学は当時まだない。古代インドでは人間の生死を想像や推理によって想像するしかなかった。その結果、生まれたのが輪廻転生の考え方。全ての生物には霊魂があり、その霊魂は不滅で、何度も生まれ変わるという古来からの土俗的考えである。それらは今では遺伝学や脳科学によって解明され、生命現象は霊魂、輪廻転生という考えなしに、明解に説明され出している。だが、2000年以上の昔には生命現象の本質はわからなかった。そこで考え出されたのが、人間を含めた生物には霊魂があり、その霊魂は不滅、次の世で転生し、他の生物に生まれかわり、生物はこれを繰り返すという輪廻転生の思想である。
 輪廻転生は生物の誕生と死のサイクルをうまく説明している。だが、現代の生物学の知識から見れば、輪廻転生の考え方は間違いでしかない。だが、もっともらしい説明ができ、説得力がそこそこあれば、検証なしでも正しいと認めるのが古代のやり方。神としてのブッダの出現は、この輪廻転生思想に因果応報という考え方が結びついた結果である。ブッダは崇高な行いをして徳を積んだ。ある時は象に生まれ、自分の生命を犠牲にして人を救った。また、ある世に生まれた時は自分の肉体を犠牲にして飢える虎の命を救った。そのような前世における善行と徳を際限ない生まれ変わりの中で積み重ねた。その積善の功徳が原因となり、現世で悟りを開くことが可能になったという物語がつくられた。このようなブッダの前世が「菩薩」である。ブッダの前世における修行と善行の物語が根拠なしに想像によって作られた。これこそ方便、フィクション、虚構である。これがジャータカ(本生譚)である。ジャータカはわかりやすく、感動的な寓話が多い。そのため紀元前2世紀頃から盛んに作られ、部派仏教の経典の中に加えられていく。
 この菩薩の思想が大乗仏教では拡大解釈され、作者の文学的想像によって自由に次々と生み出されていった。これが願生(ガンショウ)の菩薩。誓願(苦海に沈む衆生を救いたいという願い)によって生まれた菩薩である。そこに歴史的実体は何もない。単なる空想によって作られた菩薩。菩薩や諸仏を生んだ大乗仏教の宗教的思考が想像力豊かである一方、史実ではないことを忘れてはならない。
 名の知れた菩薩として観世音菩薩、法蔵菩薩阿弥陀仏の前身)、文殊菩薩普賢菩薩勢至菩薩地蔵菩薩虚空蔵菩薩などが願生の菩薩として挙げられる。このうち観世音菩薩は「観音さま」として今でも親しまれる菩薩。観世音菩薩は法華経や般若心経に出てくるが、過去に実在した歴史上の人物ではない。想像によって創作された菩薩である。このような空想上の存在を真剣に礼拝信仰するのが大乗仏教のもつ大きな特徴である。
 菩薩は悟りを開こうと思えばできるまで高い境地に達しているが、苦海に沈む衆生を救いたいという利他の慈悲心から敢えて悟りを開くことを断念する。このため大乗仏教では悟りを開くことが最終目的ではない。実際、大乗仏教では禅宗を除いて悟りを開いた人はほとんど聞かない。即身成仏を説いた空海のような天才でも悟りを開き、仏陀になってはいない。日本仏教の諸宗派の開祖である最澄法然親鸞日蓮、一遍のような宗教的巨人の誰が悟りを開きブッダになっただろうか。誰もなっていない。  
 大乗仏教では、彼岸(涅槃)に到るためには、布施(慈善)、持戒、忍辱、精進、禅定、智恵という6種のパーラミター(六波羅密)を無限の時間(生まれ変わりの無限の生涯)にわたって実践し、徳を積むことが求められる。パーラミターとは完成とか完全を意味する。この六波羅密は倫理徳目である。大乗仏教では倫理的に良いことをすることが重要となり、悟りへの道(彼岸への道)とされるようになる。普通の人間は、無限の時間にわたって六波羅蜜を実践し、徳を積むことはできない。生きるためには食べなければならない。そのためには労働して、生活しなければならない。人間には自己の生命保護をふくむ抜き難い利己心がある。六波羅蜜の実践のためには、そのような利己心を捨て、衆生(他人)のために自己を捧げ尽くすという、超人的な「自己犠牲」と「利他行」が要求される。大乗仏教では、悟りを開いてブッダになるには無限の時間をかけて六波羅密を実践しなければならないと考える。そのため、悟りを開いて、ブッダになるのはほぼ不可能。六波羅密は原始仏教の八聖道に対応するもの。この六波羅密を完全に実践し、悟り(菩提)を成就するためには殆ど無限大の時間がかかる。例えば、完全な布施(慈善)とは、自分に余裕がある時に人にものを分け与えるということではなく、あらゆる場合にあらゆる命あるものたちのために、自らの身命をさえ犠牲にして悔いないことを意味している。これは実行不可能なことだろう。
 大乗仏教では多くの人々を救うことがブッダの本懐と捉える。多くの人々を信仰によって救うことによって悟り、成仏することを目指している。だが、この六波羅密でもわかるように、不可能に近い完全無欠な理想(倫理的徳目)を追い求めるあまり、悟ることを放棄したとも言える。倫理徳目を実践することは悟りとは独立したことだからである。その点、「直指人性、見性成仏」と直接悟りを目指す禅宗は、大乗仏教の中では特異で、原始仏教に近く、禅宗で悟りを開くのは少数のエリートである。だが、普通の大乗仏教では、大勢の修行僧が大乗経典を通じて修行しても、彼らが一挙に悟りを開くことはない。
 大乗とは大きな乗り物を意味し、大勢の大衆を救うという意味がある。わかりやすい教えでなければ大衆に理解されず、大衆を救うことができない。その点で「南無阿弥陀仏」を一心に唱えれば救われるとした法然親鸞一遍上人の浄土系仏教大乗仏教が行き着いたゴールの一つだろう。だが、もしブッダが生きていて浄土教を聞いたら、「自分はこんなことを言った覚えはない。これが何で自分の教えとされるのか。」とビックリ仰天する筈である。
 ところで、菩薩は人間だろうか。金光明最勝王経の序品には説法の場に出席した菩薩の数は百千万億と書かれている。同経の十方菩薩讃歎品には無量百千万億の菩薩が霊鷲山の山頂に集まったとある。だが、ブッダが愛した霊鷲山の山頂にはせいぜい百人くらいが集まる空間しかない。多くの大乗経典では菩薩がブッダの説法の場に出席している。この菩薩とは人間ではなく、想像によって創作された霊的存在ではないのか。菩薩は悟りを求めて修行する求道者と考えられている。菩薩はサンスクリットのbodhisattvaの漢訳、bodhiとは菩提(悟り)であり、 sattvaとは存在である。この言葉から考えれば、悟りを求めて修行する求道者は誰でも菩薩。だが、大乗仏典を読む限り、菩薩は単純に人間とは考えられない。例えば、その身長。観無量寿経には観世音菩薩の身長は80万億ヨージャナ(由旬)と書いてある。1ヨージャナ(由旬)は約8km。これから計算すると観世音菩薩の身長は640兆kmとなる。これは天文学的な高さで、人間でないことは明らか。ところが仏像の姿で表現されている菩薩の高さは等身大かそれより小さい。もし、経典の記述に忠実に作ろうとすると観世音菩薩像を地上で製作することは到底不可能。すると、大乗経典に現れる菩薩は神にも等しい霊的存在となる。
 日本では徳一、行基日蓮などが菩薩と呼ばれるくらいで、菩薩の数は極めて少ない。菩薩になるのさえ難しいので、その上の仏になるのは更に難しいことになる。よく、大乗仏教ブッダの教えを復興する目的で生まれた仏教復興運動だといわれるが、菩薩になるのが難しく、その上の仏になるのは更に難しいのでは大乗(大きな乗り物)とはとても言えない。これは大乗仏教が抱える大きな矛盾である。
 仏教の歴史はある意味でブッダから離れる歴史だった。ブッダからの離反はブッダの死とともに始まった。アーナンダが死に臨んだブッダに「ブッダの葬儀をどのようにしたらよいでしょうか?」と問うのに対し、ブッダは「アーナンダよ。お前たちは修行完成者(ブッダ)の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。正しい目的を実行せよ。正しい、目的に向かって怠らず勤め、専念しておれ。」と答える。ブッダは「葬式や遺骨崇拝にかかわらず、修行に専念せよ」と言っている。この遺言はブッダの生前の教説に完全に一致している。だが、ブッダのこの遺言は遂行されない。ブッダの遺体は火葬にされる。しかも、その火葬は遺言と異なり、遺体は貴重な綿布に包まれ、鉄製の油漕に入れられ、香料を振りかけた薪で焼かれたのである。火葬後もその遺骨(仏舎利)は8分割され、分配された。それら仏舎利はさらに細分され、各地のストウーパ(仏塔)に安置され、崇拝されるようになる。
 仏舎利や仏塔に対する崇拝は法華経般若経などの経典に説かれている。ブッダを神格化し信仰する教えは、大乗仏教で更に推進されていく。「悟りを開きブッダになるには無限回の生まれ変わりと時間が掛かる」というのは、大乗仏教でのブッダ神格化の常套手段となってきた。
仏教がもともと自由思想家であるブッダの創始した宗教であり、異端に寛容であったこと、インドでは神秘思想や宗教的思想が元来優勢で、ブッダの説く合理的な考え方が理解されにくかったこと、 これらがブッダからの離反の理由と思われる。