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大乗仏教(7):信仰を強調する大乗経典

  華厳経大乗仏教の有名な経典の一つ。信仰を強調する点にその特徴があり、「初発心時便成正覚(しょほっしんじべんじょうしょうがく)」の思想は華厳経の重要な主張。それは「菩薩が初発心することができれば、正覚(ブッダの悟り)を達成することができる」という意味である。この初発心は信仰に裏付けられた発心である。大乗の非合理な教えを信じることは非常に難しい。もしそれを信じて菩薩道に入ることさえできれば、正覚を達成したのも同然という訳である。
 華厳経の最終章は入法界品。その最後は普賢菩薩の次の言葉で結ばれている。「この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑うこと無き者は、速やかに無上道を成じて、 諸の如来と等しからん。」信じて疑わなければ速やかに無上道(=悟り)を成就できると述べている。華厳経の本質を端的に示す普賢菩薩のこの言葉は、「大乗仏教とは信仰の道」ということを表現している。華厳経ではブッダはビルシャナ仏という名前になり、種々の奇跡を起こす。法華経(寿量品)ではブッダは「私は永遠の生命を持つ仏であり、死んだのは方便に過ぎない。私は常に霊鷲山にいる。」と言う。
 多くの大乗仏典ではブッダの白毫から無量の光明が放出される。無数の蓮華があらわれ、その花弁にまた無数の化身仏がいる。もはやブッダは神に等しく、人間ではない。華厳経が説く菩薩道は宗教的には高い理想を掲げているが、非合理と不思議に満ちた宗教的世界である。非合理に満ちた宗教的世界を信じることができれば、正覚を達成したに等しい。そこで強調したのが信仰。非合理なことでも真心で熱心に信じることはヒンズー教バクティ(誠信)の思想に通じる。原始仏教にも「信じる」という言葉はあるが、基本的教理は道理。道理に基づいているので、理解した上で信じるのである。その基本教理は「四聖諦、八正道、縁起、諸行無常、無我、自帰依、法帰依」などからなる合理的な教説である。同じように、科学に信仰はない。科学は合理的で、実験によって実証される。だから、科学に信仰は必要ない。
 華厳経の「信じて疑わなければ、正覚を達成できる」という「初発心時便成正覚」の思想はブッダの理法から見れば誤り。華厳経は典型的な大乗経典で、そこからブッダ仏教が「信じることさえできれば初発心の時に正覚を達成する」という信仰中心の宗教に変容したことがわかる。大乗涅槃経の四依品ではブッダは次のように述べる。「無量の功徳を成就し身につけた人はこの大乗経典をよく信じ受持するだろう。もしこの経典を聞くことができれば過去に作った悪業は全て無くなる。もし、この経典を信じない者がいれば、その人は無量の病苦に悩害されるだろう。多くの人にあなどられ、軽蔑されるようになるだろう。」ブッダがこのような人を脅迫するようなことを言うだろうか。
 大乗仏典で信を強調するのは一体何故なのか。 ブッダ仏教では信を強調しない。ブッダは道理に基づく理法を強調し、「信仰を捨てよ。」とまで言った。信や信仰を説くのはバラモン教などインド伝統宗教である。大乗仏教はそれまでの伝統仏教(部派仏教小乗仏教)と異なり、信仰の道を説くヒンズー教に逆戻りする。大乗経典の創作者たちはこの変化をはっきり自覚していた。彼らはその違いを意識しながらも、ヒンズー教を信じる一般大衆を説得し、新しい大乗仏教に彼らを取り込むため、信を強調したのである。
 苦行(くぎょう)とは、身体を痛めつけることによって自らの精神を高める宗教的行為。禁欲とも密接に関係し、ほとんどの宗教には禁欲主義的な傾向が見られる。ブッダ本人は、苦行はいたずらに心身消耗するだけと否定した。しかし、大乗仏教では苦行を肯定する思想が蘇る。苦行肯定の思想は法華経、大乗涅槃経、勝鬘経、梵網経など随所に見られる。
勝鬘経の摂受正法章には次のように述べられている。「ここにもし、施しによって果報を成就するにふさわしい人々があれば、その人々に対して、真実の教えをしっかりと身につけた者は、男であれ、女であれ、施しを行い、時には自己の肉体の一部ないし全身を投げうってさえ、かれらを成就させるものです。このように、施しを通して人を良い果報に導き、真実の教えに安住させること、これがその真実の教えを身につけた者の行う「真実・究極的な布施行」です」。
 梵網経では大乗経典の戒律を求める人に対し、「身を焼き、臂(ひじ)を焼き、指を焼くべきである。もし、身臂指を焼いて諸仏に供養しないならば出家の菩薩ではない。あるいは飢えた虎狼獅子、一切の餓鬼に悉く身肉手足を捨てて、しかもこれを供養すべきである。その後に正法を説いて理解してもらうべきである。」と苦行を説いている。
法華経の薬王菩薩本事品によれば、薬王菩薩は前世において香を服し、香油を身に塗って自ら身を燃やして仏を供養した。その光明は八十万億恒河沙の世界を照らしたので、その中の諸仏は同時に「これ真の精進なり。これ真の法をもって如来を供養するものと名づく」と讃めた。また、ブッダは「薬王菩薩はこのように身を捨てて布施すること無量劫に及んでいる。故に無上等正覚(無上の正しい悟り)を求める者は、手の指から足の指を燃やして仏塔に供養せよ。それは国城・妻子や諸々の珍宝をもって供養する者に勝るであろう。」と語る。このように法華経では、ブッダ自身が苦行を賛美したと述べている。
 ブッダの神格化として「三身仏」の思想がある。これは、大乗仏教において人間ブッダがどのようにして神をも越える存在になったかを知る上で欠かせない思想。ブッダの死後、時が経つとともに教祖に対する崇拝の念は益々強まり、ブッダの宗教化が進む。大乗仏教では歴史的なブッダ像は薄まり、理想像が仏身論として展開される。その代表が「三身仏」の思想。三身とは法身(ほっしん)、報身(ほうじん)、応身(おうじん)の三つ。法身とは肉身のブッダは死んだが、彼が残した法(仏法の真理)は永遠不滅であると考え、ブッダはこの法と一体の存在である「法身仏」であると考える。この考えによって、ブッダは歴史の中で実際に生きた人間ではなく法の抽象体である法身(法を身体化した抽象的存在)になってしまう。歴史的人間が一挙に神に変わるのである。華厳経や十地経の盧舎那仏密教大日如来はこの法身仏。

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円成寺 大日如来像 運慶作)

 報身仏とは長い間の修行と無量の慈悲の誓願が実ってブッダになったとする考え方である。報身仏は修行の結果、悟りを開き、ブッダになった存在である。阿弥陀仏は報身仏とされる。阿弥陀仏は浄土系経典に始めて記述された仏であり、法蔵菩薩という架空の菩薩が長い間の仏道修行と慈悲の誓願を実らせた結果、ブッダとなった。応身仏とはこの架空の報身仏が衆生済度のため人間としてこの世に生まれ、教化活動をする仏を指している。

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高徳院 銅造阿弥陀如来像)

 三身仏の思想によれば、ブッダは霊的存在としての報身仏が一切衆生を救おうと願う無量の慈悲と誓願によって天上界から人間界に出現したもの。この考えの下ではブッダは人間ではなく霊的存在。部派仏教では、仏舎利は人間として生まれ、80歳で入滅したブッダの遺骨である。だが、三身仏の思想から見ると、ブッダは霊的存在としての報身仏。霊的存在としての報身仏がどうして遺骨(仏舎利)を残すことができるのか。仏舎利は三身仏の思想では説明できない。実際、金光明最勝王経には同じ疑問が出され、それに対する答えは、仏舎利は衆生を救うための方便だと述べている。
 このような三身仏の思想はどうして出てきたのか。ブッダの死後時が経つにつれブッダの教法の真意が見失われ、仏教徒によってブッダの神格化が進んだ。ブッダの出現はインド伝統の輪廻転生思想と結びつき、超越者としての仏の下生という宗教的な説明が考え出された。三身仏の思想ではブッダは突然出現したのではなく、その本体はビルシャナ仏のような法身仏であり、衆生済度のため人間に化身してこの世に生まれた。そして衆生済度の活動をして80才で死んだ。しかし、滅したのは肉体で、その本体は清浄な法を身とする法身仏であり、永遠不滅。
 法華経や金光明最勝利王経ではブッダは何故80歳の短い寿命で死んだのかが問題にされている。ブッダが神にも等しい存在ならば、不死であるはずである。その答えは、ブッダが死んだのは仮の姿で、衆生を導くための方便に過ぎないというもの。 もしブッダが死ぬことなく永遠に生きていると、衆生は「仏はいつまでも生きている、いつでも会える」と思い、仏を軽視するようになる。仏は有り難い存在で、滅多に会えないということを示すために、方便として涅槃を示した(死んだ)のである。法華経如来寿量品では、ブッダは本当は永遠の過去から悟りを開き、生き通している「久遠実成の本仏」だとされ、久遠の昔から現在も生きているのだと説明される。だが、そのようなブッダ原始仏教には存在しない。大乗仏教が想像によって創造したブッダである。
 ブッダの遺した教えの一つは「法帰依」の教えである。「法帰依」だけだと宗教的迫力に欠ける。それでブッダの法とブッダの偉大なイメージを合体した法身仏が必要となった。だが、法身仏だけではまだ抽象的で人間味に欠ける。そこでさらに物語性や神話性をもつ報身仏がつけ加えられ、創作されたのではないか。この考え方に影響を与えたのはヒンズー教の「化身」という考え方である。ヒンズー教聖典バガヴァット・ギーターの主人公クリシュナはビシュヌ神の化身。「化身」の思想はヒンズー教特有の考え方だが、その起源ははっきりしていない。イランのゾロアスター教聖典「バフラーム・ヤシュト」の中にウルスラグナ神の化身思想が見られることから、その起源は中央アジアにあるらしい。後世仏教はインドで滅亡し、ヒンズー教の中に吸収された。ヒンズー教ではブッダはビシュヌ神の化身の一つとされている。法身仏である大日如来がビシュヌ神に置き換わっている。この考えはキリスト教の受肉の思想と似ている。キリスト教ではキリストは神が天から降臨し受肉した存在で、まさに「化身」。
 キリスト教には父なる神と子イエスと聖霊は一体であると説く三位一体説がある。この教義は神とイエス・キリスト聖霊の間の関係をどのように捉えたらよいかという問題から生まれた結論である。キリスト教ではイエスは人間ではなく神であると考える。神はこの世の存在ではない。もし、イエスが人間ならば神から人間が何故生まれたかを説明しなければならない。もし、これが説明できなかったらイエスは神でなくなってしまう。
 この論争は紀元2世紀後半から始まり、紀元5世紀には三位一体であると決められた。三位一体説は人間でない神から何故人間であるイエスが生まれたかを説明するキリスト教の基本理論である。キリスト教などの一神教と対照的に、ブッダの説いた仏教は自己究明の宗教である。崇拝の対象となる超越的存在としての神的存在はもともとない。人間であるゴータマ・シッダールタが修行の結果ブッダになっただけである。ブッダはあくまでも人間である。この点が一神教と大きく異なる。
 三身仏の思想はこの人間ブッダを超越者(神)に祭り上げ、宗教化するための大乗仏教のフィクション。人間ブッダが超越者に格上げされれば目的は達成される。そのためか三身仏の思想は論争のテーマになっていない。キリスト教徒が三位一体説を確立するため200年以上も真剣に論争を行い、キりスト教の理論的支柱となったのと比べると大きな違いである。法身仏においては偉大なブッダは人間のような矮小な存在ではなく、永遠不滅の法身をもつ存在。この考えによって人間ブッダの偉大性は増した。しかし、永遠不滅の法身仏や西方極楽世界の阿弥陀仏、光り輝く大日如来薬師如来のような多数の報身仏が殆ど無制限に創作された。このため教祖であるブッダの存在がかすみ、創作された諸仏の方が熱心に信仰されるという皮肉な結果になる。