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大乗仏教(9):ブッダとカント

 龍樹の『中論』の冒頭には「八不の偈」と呼ばれる次のような文章がある。
「不生にして不滅、不常にして不断、不一にして不異、不来にして不去なる、よく諸々の戯論を止息せしめる吉祥なる縁起を説きたまう正覚者、説法者中の随一なる彼の佛に敬礼したてまつる。」
 否定の「不」がなんと八回も出てくる。だが、よく読めば、「縁起は不生にして不滅、不常にして不断、不一にして不異、不来にして不去である。」という文と「縁起は戯論を止息させることが出来るので吉祥である。」という文。「不常」とは恒常的ではないこと。「不断」は断見(=何も無いという虚無の考え)の否定。「不一にして不異」は、一つでもなく、一つでないものでもないこと。「不来にして不去」は、来るのでもないし、去るのでもないこと。要約すれば、「縁起は不生不滅の真理であるが、それ以外の性質は不常、不断、不一、不異、不来、不去という否定文で表現するしかない」と述べている。さらに言えば、縁起という概念は確定的な言葉で表現することは不可能。『中論』では縁起は「空」を意味しており、上の「八不の偈」は「空」を説明する文章にもなっている。龍樹には縁起も空も肯定的な文で表現することができない概念だった。
 ブッダを始め古代インドの仏教徒は熱心に坐禅をした。その禅定中に体験したものは正しい世界認識だと信じられていた。古代インドでは色(物質)と心は不二(分離不能)であると考えられていた。科学では、物質的な対象を客観的に観察するために種々の観測や実験を行う。この観測や実験による検証がなければ、真理を主張できない。では、仏教徒の真理獲得の方法は何か。坐禅は仏教徒にとって自己認識と自己探求の手段である。古代仏教徒には禅定の最も深まった状態で得られた、雑念のない認識が正しい認識。このように考えれば、龍樹らの古代仏教徒たちが熱心に「空」を悟りの核心であると主張した理由が理解できる。龍樹の「空」はブッダ「無我」に対応している。

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 SN(スッタ・ニパータ)でブッダが主張している核心は「つねによく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観じなさい。」である。「世界は空なり」と主張される際の世界は、自己から見た世界であり、普通に考えるような宇宙や物質の世界ではない。ブッダが述べる世界は自己が経験する意識世界であって、物質世界としての宇宙ではない。このようなブッダの基本的態度は中部経典「ールンキヤ小経」(漢訳名「箭喩経」)に述べられている。マールンキャープッタは「世界が有限であるか、無限であるか」、「世界は常住であるか、無常であるか」、「霊魂と身体は同一であるか、別であるか」、「如来は死後存在するのか、存在しないか」などの質問をブッダにした。彼はブッダがこのような質問に答えてくれなければ出家をやめて、還俗すると言ってブッタに迫った。それに対するブッタの答えは次の通りである。
 「マールンキャープッタよ、たとえば人あって「世尊がわたくしに「世界は常住である」ともあるいは「世界は無常である」とも…あるいは「如来は死後に存在するのでもなく存在しないのでもない」とも記説されない間は、わたくしは世尊のもとで清らかな修行を修めまい」と告げるとしよう。マールンキャープッタよ、如来によってそのことが記説されなければ、その人は命終わるであろう。マールンキャープッタよ、「世界は常住である」という見解があるとき、清らかな修行に住するであろうということもない。「世界は永遠である」という見解があろうと「世界は永遠でない」という見解があろうと、まさに生まれることはあり、老いることはあり、死ぬこと、愁、悲、苦、憂、悩はある。わたくしは、いま現実にそれらを制圧することを教えるのである。…「世界は永遠である」とわたしは説かない。「世界は永遠でない」とも説かない。「世界は有限である」と説かない。「世界は無限である」とは説かない。「身体と生命とは同一のものである」とは説かない。「身体と生命とは別個のものである」とは説かない。「如来は死後に存在するかどうか」とは、わたしは説かない。マールンキャープッタよ、なにゆえにわたくしはそれを説かないのか。マールンキャープッタよ、それは目的にかなわない。清らかな修行のための基礎とならない。遠離、離貧、苦の止滅、心の静寂、すぐれた智恵、正しいさとり、ニルバーナ(涅槃)の獲得に役立たない。それゆえに、わたくしはそれを説かない。」
  このブッダの説法は極めて説得力に富んでいる。ブッダに対して「マールンキヤ小経」に見られるような十の難問(十難)が投げかけられたが、それらをまとめてみよう。

世界は永遠に存在するのか、変化するのか。
世界の大きさは有限か、無限か。
身体と霊魂とは一つであるのか、別ものであるのか。
人格的完成者(如来)は死後に生存するのか、しないのか。

ブッダは上記の難問に対し、沈黙を守り何も答えなかった。なぜ答えないかの理由として、ブッダは、「なにゆえにわたくしはそれを説かないのか。それは目的にかなわない。清らかな修行のための基礎とならない。遠離、離貧、苦の止滅、心の静寂、すぐれた智恵、正しいさとり、ニルバーナ(涅槃)の獲得に役立たない。それゆえに、わたくしはそれを説かない」と述べている。この言葉でわかるようにブッダの教えの目的は「遠離、離貧、苦の止滅、心の静寂、すぐれた智恵、正しいさとり、ニルバーナ(涅槃)の獲得」にある。
 宇宙や物質世界の実相を明らかにすることはブッダの興味や視野の中にはなかった。「苦の止滅、心の静寂、すぐれた智恵、正しいさとり、ニルバーナ(涅槃)の獲得」などの究明にあった。
 ここまでがブッダの話、ここからがカント。アンチノミーとは、二つの矛盾する命題が同時に成立することを指す用語。それはありえないことを意味している。このありえないことが理念の世界で生じるのはなぜかを論じたのがカントのアンチノミーを巡る議論。カントは四組のアンチノミーを挙げる。

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第一アンチノミー:世界は時間的に始まりを持ち、空間的に限界を持ち、有限である(定立命題)。世界は時間的に始まりを持たず、空間的に限界を持たず、無限である(反定立命題)。
第二アンチノミー:世界は単純な実体から構成されている(定立命題)。世界には単純な実体は存在せず、どこまでも分割可能である(反定立命題)。
第三アンチノミー:自然法則に基づいた必然的な因果関係のほかに、人間の自由に基づいた因果関係も存在する(定立命題)。自由に基づいた因果関係は存在せず、自然法則に基づいた因果関係だけが存在する(反定立命題)。
第四アンチノミー:神は存在するという定立命題と、神は存在しないという反定立命題との対立。

 矛盾する命題は同時に真であることはできず、一方が真なら、他方は偽。ここでは、第一のアンチノミーについて、カントの議論を見てみよう。
 世界は時間的に始まりを持ち、有限であるというのが定立命題、世界は時間的に始まりを持たず、無限であるというのが反定立命題。これらがいづれも真を主張する理由は何か。カントは帰謬法を使って、定立命題の正しさを反定立命題の誤りを指摘することによって証明し、反定立命題の正しさを定立命題の誤りを指摘することによって証明しようとする。この帰謬法を使った証明は他のアンチノミーでも共通している。
 まず、定立命題。反定立命題によれば世界に始まりがないので、現在の世界が生まれるまでに無限の時間が経過していることになる。つまり、世界の中の出来事の無限の系列がすでにあったことになる。だが、系列が無限ということは、決して完結することがないということである。だから、出来事の系列が無限に過ぎ去っていることは不可能。
 反定立命題。定立命題によれば世界に始まりがあるので、その始まり以前には世界が存在しない空虚な時間が流れていた。だが、その空虚な時間の中ではある出来事が起こることはできない。それゆえ、世界そのものは始まりを持つことはできない。
 このように、この一対の命題は、それぞれが正しいことを主張している。しかし、もしどちらも正しいことを認めることはできない。有限でありながら、無限であることは、論理上不可能だからである。
 それゆえ、このアンチノミーのどこかに誤謬が潜んでいる、とカントは考える。カントはその誤謬を、二通りの方法で暴いている。一つは形式論理的な方法、もう一つは人間の理性の本質に着目した指摘である。
 まず、論理的な指摘。この対立は「一方が真ならば他方は偽」のような関係、つまり矛盾対当のような印象を与える。だが、対立する関係には反対対当もある。これは、両方が真であることはできないが、両方が偽であることは可能な対立。カントは、第一のアンチノミーを矛盾対当ではなく反対対当であるとし、両方とも偽の命題としてこのアンチノミーを解消する。対立関係に両方とも真でありうるものがあり、それが小反対対当。四対のアンチノミーのうち、第一と第二は反対対当、第三と第四は小反対対当であるとして、これら四つのアンチノミーは理性の誤謬による産物だというのがカントの答え。
 では、どうして理性はこのような誤謬に陥るのか。カントにとって、こうした誤謬は理性にとっては不可避のもの。世界の時間的な始まり、空間的な限界などは直感によってとらえられるものではなく、あくまでも理性による推論の産物である。その推論の産物に過ぎないものが、あたかも客観的な実在として存在するかのように考える、ここに誤謬の原因があるとカントは主張する。私たちにとって世界は、あくまでも現象としてあらわれる限りでのものにすぎない。それを現象を超越した物自体としてとらえるところに、問題の発端があるというわけである。
 こうして、ブッダとカントの哲学はよく符合している。二人とも哲学者からなのだが、同時に哲学が無力なこともよく示してもいる。