大乗仏教(10): 「空」から唯識へ

 龍樹や中観派によって初期大乗の「空」の思想が確立された。彼らは「空」の思想によって部派仏教バラモン正統派の実在論的哲学を否定したが、「空」の思想だけでは抽象的、観念的で、変動激しい時代に対応することができなかった。また、その否定的な内容から世界に対する積極的な理論を具体的に提示できなかった。そのためか、仏教は新しく隆盛してきたヒンズー教に圧倒されつつあった。このようなジリ貧の閉塞状況を打開するため、中期大乗仏教が新たに誕生することになる。
 中期大乗仏教の特徴は唯識論と如来蔵(仏性)思想。その唯識論を背景に展開されるのが、三島由紀夫の『豊饒の海』。それは横に置き、初期大乗の「空の思想」の大成者が龍樹だったのに対し、唯識論の大成者は世親や無著。「物は実在するか」への答えは、(1)外界の物はそれ自体で実在している、(2)外界の物は識別にすぎず、物は心にそなわる表象の投影であり、外界の物は実在しない、というのが古来からの代表的な二つの解答。(1)は(素朴)実在論、(2)は観念論。

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(無著立像 興福寺北円堂)

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(世親立像 興福寺北円堂)

 実在論と観念論のいずれが真かは思惟だけで解決できる問題ではない。実際、私たちが物の存在を知覚し、認識するのは感覚器官を通してである。存在は感覚器官に備わる表象に過ぎないと主張されても、それをきっぱり否定するのは意外に厄介。唯識論によれば、世界のどんな対象も実在しない。一切は意識の投影に過ぎない。その意味で、正に「唯識」である。現代風には唯心論、唯脳論と共通点をもつ。
 唯識とは、あらゆるものが、「唯(ただ)、八種類の識から成り立っている」という大乗仏教の思想。ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。これら八種の識は個人の広範な表象、認識行為を含み、意識、無意識のあらゆる状態を含む。存在が個人の識でしかないのならば、それらは主観的な存在であり、それゆえ、それらは無常。つまり、それら存在は「空」であり、実体のないもの。このように、唯識大乗仏教の空思想を基礎に置いている。
 唯識論は、世界は各個人の表象に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定する(八識説)。視覚や聴覚などの感覚も識であり、感覚は、それぞれ眼識(げんしき、視覚)・耳識(にしき、聴覚)・鼻識(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚)と呼ばれる。これを総称して「前五識」。その次が意識で、六番目なので「第六意識」と呼ぶことがある。その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識がある。これは寝てもさめても自分に執着し続ける心。熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着する。さらに、その下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して、私たちが「世界」と呼ぶものを生み出している。
 あらゆる存在(色)は「空」であり、実体のないもの(色即是空)。唯識は、4世紀インドに現れた瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは )という初期大乗仏教の一派によって唱えられた認識論的傾向の強い思想。瑜伽行唯識学派は、中観派の「空」思想を受けつぎながらも、とりあえず心の作用は仮に存在するとして、その心のあり方をヨーガの行でコントロールし、また変化させて悟りを得ようとした。この世の色(物質)は、ただ心的作用のみで成り立っている、と考えるので、西洋の唯心論と似ている。だが、唯識論では、その心の存在もまた仮のもので、最終的にその心的作用も否定される。したがって、唯識論と唯心論はこの点で異なる。また、唯識は無意識の領域を重視するために、「意識が諸存在を規定する」とする唯心論とは明らかに相違がある。
 大乗仏教の考え方の基礎にあるのは、この世界のすべての物事は「縁起」、つまり因果的な相互関係の中で現象しているものと考える。唯識説はその説を補完して、その現象は人が認識しているだけであり、心の外に何物も存在しないと考える。これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)、または唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられる)という。個人はそれぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識しているが、他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子が存在するからだと唯識論は主張する。
 人が何かを行ったり、話したり、考えたりすると、その影響は種子(しゅうじ)と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識のなかに保存される。これが薫習(くんじゅう)。香りが衣に染みつくように行為の影響が阿頼耶識に蓄えられる。このため阿頼耶識を別名蔵識、一切種子識とも呼ぶ。さらに、それぞれの種子は、阿頼耶識の中で相互作用し合い、新たな種子を生み出すことができる。また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識や意識に作用することがある。さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。この種子は前五識から意識、末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識である。以上が唯識論による情報処理の仕組みと記憶の説明である。
 このような識の転変は無常であり、一瞬のうちに生滅を繰り返し、その瞬間が終わると過去に消えてゆく。このように自己と自己を取り巻く世界を把握するから、すべての「物」と思われているものは「現象」でしかなく、「空」であり、実体のないものである。しかし同時に、種子も識そのものも現象であり、実体ではないと説く。これがヨーロッパ的な唯心論と違うところ。心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空)であり、究極的にはその実在性も否定される。

(これでは唯識の思想も否定され、結局何も主張されないことになる。唯識論は唯心論とは異なるとされるが、心の否定は唯心論だけでなく唯識論自体も破綻させることになる。)
  
 第1期大乗経典の一つ華厳経の十地品において「三界は虚妄にして、但これ一心の作なり」という言葉がある。これは華厳経の中心思想の一つとされてきた。羅什訳の華厳経ではこの部分は「三界虚妄、但是心作」、実叉難陀訳の華厳経では「三界所有、唯是一心」である。ここだけ読むと華厳思想は唯心論でる。だが、唯心論といっても仏教では「心」についての考え方がヨーロッパと大きく異なる。西洋哲学における観念論の「心」は抽象的な心である。この「心」はデカルト以来の精神と物質が区別された二元論に由来している。ところが、仏教の「心」は精神と物質が分離した心ではない。仏教はもともと精神と物質の二元論に立っていない。仏教心身二元論を採用しない。仏教では精神と物質を二つに分けない。 華厳経の主張を現代風に表現すれば「心と色(物質)の不可分性」、つまり「色心不二」の心である。

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(George Berkley)

 唯識論の主張を見てきたが、気になるのは唯心論。唯心論的な観念論となるとバークリー(George Berkeley 1685-1753)。その点で彼は近代哲学史上重要な位置を占めている。バークリー以前の観念論は、人間の精神活動が生み出す観念や理念を実体的なものとして捉えていて、それらを個人の精神のなかに局限することはなかった。理念的なものはそれ自体が普遍的な存在で、個人の心を超えたところに実在している。ところがバークリーはその観念的な実在性を、個人の心の中に閉じ込めてしまう。
 バークリーによれば、すべての実在は心的なもの。私たちが外部にある物質的な存在と思っているものは、実は私たちの知覚の表象に過ぎない。私たちは自分の知覚に基づいて、対象の色や形、音や暑さといったものを知るが、それは知覚として私たちの心の中にあり、心の外にあるのではない。私たちが知るのは、知覚として心の中に現れたものだけである。
 人間が知覚しているのは対象のさまざまな性質に過ぎず、対象そのものを知覚しているのではないとバークリーは主張した。対象は色や形といったさまざまな性質として私たちの知覚に現れるが、それは対象そのものではない。対象そのものは私たちの知覚を超えたもの。この議論はロックを思い起こさせる。ロックも、人間の知覚は外界からの作用によって引き起こされるとしたが、外界の物質そのものは直接知覚できないと考えた。私たちが知ることができるのは、色や形といった性質だけなのである。
 だが、バークリーはロックより一歩進んで、そもそも心の外に、心から独立した物質的な対象など存在しないと主張した。つまり、物質を否定して、この世に実在するのは心の中の世界だけだと明言した。これが唯心論といわれる理由である。この主張が哲学上いかに厄介な問題をはらんでいるかについては、やがてカントが「物自体」を巡って延々と議論を展開したことでもわかる。つまり、人間の認識過程に焦点をあてて議論をしていくと、人間の知覚作用における対象の意味が問われることになる。バークリーが哲学史上重要な位置を占めるのは、この点においてである。近代的な認識論に道を開いたのはデカルト。彼は考える実体としての精神と、延長を持つ実体としての物体との二元論を提唱。ロックは精神と物質との間に何らかの関係を見出そうとしたが、ヒュームやカントの認識論に引き継がれる。それでも埒が明かず、認知心理学脳科学によってようやく意識や思考の謎が解かれようとしている。
 バークリーは人間の認識作用を考えていくうちに、対象を人間の知覚の表象として捉え直した。そうすると、知覚の対象に実体性を付与する必要はない。そこから対象そのものの実在を否定することは、無謀なことではない。とはいえ、バークリーの主張はあまりにも極端だったので、様々に批判された。もし外界の物質が個人の心の産物であるならば、寝ていたり、あるいはそれを忘れてしまったら、その物質は存在していないことになる。これはおかしいという非難に対してバークレーは次のように答えた。神は常にあらゆるものを知覚している。もし神が存在しないなら、物質は個人がそれを知覚するときにだけ存在するといったことになるかもしれない。だが、実際には神によって常に知覚されているから、それは常に存在するのだと。
 
 さて、唯識論とバークリーの主張を比較すると、人間の思考に共通するものが数多く見えてくる。細部では様々に違う点があるが、私には共通点の方が遥かに重要で、中でも精神や心の持つ産出力が共通して強調されている。