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因果的な世界から対称性の世界へ:世界を知る二つのパラダイム

 紀元前5世紀の釈迦も紀元前4世紀のアリストテレスもとても理知的で、頭脳明晰な哲学者でした。言語表現に長け、豊かな知識をもち、弟子たちを指導する能力を十分にもっていました。
 私たちは「風が吹くと、桶屋が儲かる」という文に怪訝な反応を示します。「風が吹く」がなぜ「桶屋が儲かる」の原因になるのか、その未知の因果関係が私たちの好奇心に火をつけるのです。この文は「独身者は結婚していない」というような、つまらない文と比べて、意表を突く内容をもっています。この文が正しいなら、大抵の人は「桶屋が儲かるなら、風が吹く」のかどうか知りたくなるはずです。
 ところで、シェクスピアの『ロミオとジュリエット』とユークリッドの『原論』のいずれに胸が躍るでしょうか。『原論』を読んでロマンティックな気持ちになる人はまずいないと思います。誰もが退屈で、面白みがないと感じるはずです。では、どうしてこれほどまでに反応が異なるのでしょうか。胸躍る因果的な系列からなる物語が『ロミオとジュリエット』だとすれば、前提と結論の論理的な系列からなる証明が『原論』と言うことになります。

 まずは先輩釈迦の聡明な分析を見てみましょう。因縁とは「理由」、「訳」、「原因」、「根拠」などのことです。科学も「因縁」の研究です。なぜ重い物は空を飛ばないのか、なぜ鳥は空を飛べるのか、これらは不思議なことです。その不思議なことを当たり前のわかることにすることが因縁がわかるということです。因縁は合理的、科学的な事柄で、おもしろい話ではありません。でも、人間は好奇心の塊で、理由や訳、原因を知りたがるものです。ですから、きちんと、とことん追求し、正しい原因や理由を見つけ、好奇心を満たすのです。「理由」と「原因」が違うことは賢い釈迦は十分知っていたはずですが、彼は敢えて区別せず、話しています。
 私たちは原因を探そうとすると、すぐどこかで飽きてしまい、中途半端に追及を止めてしまいます。自然の不思議はお化けのせいにすれは簡単です。そうしないで徹底的に原因を探すところに真なる知識が生まれます。正しい、本当の原因が見つかるまで飽くことなく追求するのが人間の性でもあるのです。
 その追求を徹底せよというのが釈迦の因縁についての意見です。釈迦の説法は全部因縁の説法(後で釈迦に説法したいのですが…)。ですから、どんな経典を開いても正しい因縁についての話が述べられています。理解できない理不尽な話、非科学的な話は一つもありません。具体的で合理的な説法になっています。
 不幸になるには必ず因縁(原因)があるということ、不幸ならその原因をとことん究明すべきであると釈迦は説いています。さらに、釈迦は、「必ず不幸になる人間の行動」を体系的に解明し、わかりやすく説明しています。
 業そのものは、善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられました。では、業とは何でしょうか。「業」とは、過去に行為した、成したことの結果という意味です。ですから、業の話と因縁の話はつな因果的につながっているのです(因縁が原因、業が結果)。
 悪いことをすれば悪い結果になる、良いことをすれば良い結果になる、というのが業の話。幸福だと喜んでも、不幸だと嘆いても、それが業です。例えば、食べるものに好き嫌いがあって、偏食になると、時間がたてば病気になる、それが業です。善因には善果、悪因には悪果が訪れるというのが業の因果の法則。仏教では、どんな存在も本来は善悪無記であると捉え、業に基づいた輪廻の世界では、苦楽が応報すると説かれています。どんなものも、直接的な要因(因)と間接的な要因(縁)によってよ生じるとされています。また、「原因に縁って結果が起きる」という法則は「縁起」と呼ばれています。仏教では因果を次のように分類していますは。

善因善果(ぜんいんぜんか)…善が善をうむ
悪因悪果(あくいんあっか)…悪が悪をうむ
善因楽果(ぜんいんらっか)…善が楽をうむ
悪因苦果(あくいんくか)…悪が苦をうむ

 すべてが、自らの原因によって生じた結果であるとする考え方を、因果応報と呼びます。もともと、インドでは業と輪廻という考え方が広まっていました。つまり、過去の境遇での行為によって現世の境遇が決まり、現世での行為によって来世の境遇が決まり、それが永遠に繰り返されている、という世界観、生命観です。この「業と輪廻」という考え方は仏教にも継承され、業によって衆生は、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」の六道を輪廻している、と考えられるようになりました。そして、仏教が目指す仏の境地、悟りの世界は、この因果応報、六道輪廻の領域を超えたところにあると考えられたのです。

 次は知の巨人アリストテレスです。出来事(の命題)の因果的な系列と命題(の出来事)の論理的な系列はよく似ていても、全く異なる系列です。でも、見かけはよく似ていて、大人でも混同することがしばしば。いずれの系列も「ならば」と言う接続詞によってつながれています。系列がA→B→Cと表現されるとき、→が「ならば」に対応しています。A→Bが因果的な場合、Aが原因、Bが結果で、「AならばB」となります。A→Bが論理的な場合、Aが前提、Bが結論で、「AならばB」となります。

哲学や宗教は「因果性」、「縁起」に余りに関心を集中し、そのため冷静さを幾分か失ったきらいがあります。

 アリストテレスは哲学者である以上に経験科学者でした。彼の研究成果は17世紀まで物理的な世界観を支配し、19世紀まで生物的な世界観を牛耳ってきました。それほどまでにアリストテレスの伝統は強大であり、また説得力ももっていました。そこで、長い伝統を育んできたアリストテレスの考えを見てみましょう。
アリストテレスは形相(本質)が対象の外にではなく、具体的な個体(個物)の中にあると考えました。プラトンイデアが超越的に存在しているのと違って、形相は個体に内在し、すべての個体は形相と質料から合成されています。アリストテレスは存在するものの変化を説明するために可能態と現実態という区別を考えました。そして、彼は可能態と現実態の間の変化を4つの原因によって説明しようとしたのです。アリストテレスは自然に4原因‐形相因、質量因、機動因(起動因)、目的因‐を認め、それらを使って事物の現実あるいは可能な状態とその間の変化を因果的に説明しようとしました。それぞれの原因がどのようなものかを家を例に考えてみましょう。質料因は家を造る材料、石、木等です。形相因は家を造る設計者の心の中にあり、質料によって具体化されるデザインです。機動因は家を造る主体、つまり、建築家です。目的因は家を造る目的です。アリストテレスはこれらの異なる役割を下のように考えています。

形相因:物質的なものを現実化する、決定する、特定するものである。
質料因:それなしには存在や生成がない、受動的な可能態であるものである。
機動因:その作用によって結果を生みし、結果を可能な状態から現実の状態に変える。
目的因:そのために結果や成果がつくられるものである。

 アリストテレスの4原因は事物の構成と変化の両方に関わっており、変化の時間軸に二つの原因(機動因と目的因)、構成の階層軸に二つの原因(形相因と質料因)を置いたと考えられ、それぞれ時間的因果性、存在論的因果性と呼ばれています。その後、いずれの軸も一方向だけが取り上げられ、時間軸からは目的因が、階層軸からは形相因が排除されて行きました。それが現在の因果的、還元的説明のもとになっています。階層軸は科学の研究の仕方もあって個別科学の研究領域に分けられ、分業化が進み、階層的に分割された各領域では機動因だけがもっぱら研究対象として取り上げられることになります。

 釈迦もアリストテレスも因果関係の解明が世界や人間を知る鍵だと考えていました。因果関係からなる世界は物語としての世界です。この物語パラダイムが釈迦とアリストテレスが共有したものです。これとは異なるパラダイムを完成させたのがニュートン、その成果が『プリンキピア』です。その構成は次のようになっています。

1部:目的、定義と公理
2部: (book 1) 力に従う物体の運動に関するさまざまな数学的形式の定理、それらの導出はユークリッドの『原論』と同じ形式
3部:(book 2) 流体の中での物体の運動と波の運動
4部:(book 3) 万有引力の法則と天体運動の観測結果の組み合わせ

この構成は数学的な公理の提示と、それを運動の説明に適用するという二段階からなっています。自然に見られる結果は幾つかの異なる原因や力の複合的な結果です。ニュートンは現象としての運動は見かけの運動に過ぎなく、その背後には絶対空間に関しての真の運動があると考え、見かけの運動や原因から出発して、真なる運動や原因をどのように推論できるかを『プリンキピア』で数学的に示そうとしました。
 『原論』の公理に対応するのが、慣性の法則、運動量保存の法則、作用反作用の法則という運動の3法則。ニュートンは天体の運動の秩序を観測し、その秩序と運動、そして運動の3法則の論理的な帰結から、天体間に働いている力がなければならないことを導き出します。これらの前提から、二つの物体M、M’が互いに引き合い、それがF = GMM’/r2という式によって与えられることを巧みに示しました(Gは重力定数、rは物体間の距離)。そして、宇宙に存在するどのような二つの物体の間にもそのような力Fが働いていることを帰納的に推論しました。このニュートンの新しい物理学は古典力学と呼ばれ、18,19世紀の物理学のパラダイムとなりました。
 では、ニュートンに始まる古典物理学パラダイムはどのような世界観を私たちに提示するのでしょうか。運動の法則も重力の法則も普遍的に成立しています。つまり、いつでもどこでも必ず成立しています。運動方程式による物理システムの記述や説明が数学的、演繹的になされることは何を含意するのでしょうか。このような問題を力学のパラダイム内で解決するのが対称性の原理です。
 対称性(Symmetry)という言葉は線対称や点対称の一般的な表現です。それらが図形を移動あるいは回転しても同じ形が保存されることを意味していたように、変化や運動がいつ、どこで起ころうとそれに同じ法則が適用され、同じ結果が得られることを保証するのが対称性の原理です。いつ、どこで、何に対しても同じことが成り立つことは普遍命題の「すべて」が物理世界で成立することの別の表現になっています。自然の中で変化が生じ、その変化の中で不変に保たれるものが対称的なものです。
 物理的な変化の代表は運動であり、運動とは対象の移動です。ある位置の対象が別の位置に移動することは対象を置き換えることですが、それらを対象の変換(transformation)と呼ぶことにすると、逆の変換が元の状態を復元する場合、すべてのそのような変換は群をつくります。そのような群は「変換群」と呼ばれます。物理的な運動変化は変換で表現されますから、変換群は物理的な運動変化の集まりを数学的に表現していることになります。
最も単純な力学システムは1個の粒子が1点として表されるものです。粒子は内部をもたないとすれば、空間内に延長をもたない質点(point particle、幾何学的な点)として表現されます。粒子は空間内の位置、そして質量、電荷等の物理量の値が与えられれば、空間内で表現でき、それら物理量は一定です。また、私たちは観測者としてそのシステムを外から眺めますが、観測者から物理学的に不必要なものは一切取り除かれます。単純化された観測者の測定だけが座標系の形で残されます。座標系はデカルトによって空間に導入されましたが、観測者と観測結果がそこに集約されることになりました。粒子と観測者の複雑な関係は点と座標系の関係に還元されて、単純化されて残っています。この座標系についても対称性の原理が成立します。古典力学の場合、どのような座標系を選んでも運動は同じように表現されることが原理によって保証されています。このような説明から自然法則の特徴をまとめると次のようになります。

自然法則の普遍性は対称性概念によって物理化される。自然法則を述べた普遍命題を確証する必要があるとき、直接に確かめることはできない(なぜか)。しかし、対称性とその数学的表現である群を用いることによって、数学的な意味で確証を得ることができる。物理システムの認識論的特徴づけは座標系と対称性概念によってなされる。これは観測者と物理システムの間にある認識論的関係の物理化である。

物理法則における対称性の再認識は1905年にアインシュタインが相対性の原理(Principle of Relativity)を述べたことに始まります。互いに対して一定の速度で動いている二人の観測者にとって物理学の法則は正確に同じというのが相対性の原理です。異なる視点の同等性というアインシュタインの考えはすべての可能な観測者に対して物理法則が同一であるという考えをさらに追求させることになりました。あらゆる運動への同等性を述べるという考えは、それを普遍法則に高め、等値性の原理(Principle of Equivalence)が得られました。この原理は、重力は見かけの力と区別できない、あるいは加速度の効果は重力の効果と全く区別できない、と言うものです。これら二つの原理は対称性原理の具体的な形です。
対称性原理の次の段階はネーターの定理 (1918) です。この定理によると、物理法則の対称性にはそれに対応する保存則が存在します。この定理の逆も真。つまり、どんな保存則にもそれに対応する対称性が存在します。対称性と保存則の関係は次のように分類できます。

1空間的対称性は空間の均質性であり、線運動量の保存を含意する。
2回転的対称性は空間の等方性であり、対称軸についての角運動量の保存を含意する。
3時間的対称性は時間の均質性であり、エネルギーの保存を含意する。

対称性と保存性の同等性は、物理システムのある物理量が保存されて時間発展する場合は、それについての法則も普遍的であること、そしてその逆も成立することを意味しています。

 物理学的なパラダイムに親しんだ人には釈迦やアリストテレスパラダイムは民間概念(folk concept)と映り、一般の人たちには対称性が何かチンプンカンプンで、二つのパラダイムの溝は実は意外に大きいのです。