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柏原の一茶

 「柏原」と言っても通じなくなりつつある。今は「黒姫」。一茶は宝暦13(1763)年、寒村柏原の中百姓の子として生まれた。3歳で実母と死別、産みの母の顔も姿も知らない。その後、8歳の時には継母がくるが、この継母と一茶の仲はすこぶる悪く、小さくか弱い動物や小鳥に一茶は同情を寄せることになるた。孤独な一茶は15歳で江戸へ奉公に出される。奉公先を転々と変えながら、20歳を過ぎたころには、一茶は俳句の道をめざすようになる。一茶は50歳の冬、故郷に帰る。その時の句が次のものである。

古郷や よるも障るも 茨の花 
(故郷は人を刺すバラの棘のようなものである)
ふるさとは はえまで 人をさしにけり

そして、52歳で28歳の常田菊と結婚した。やがて、長男千太郎、長女おさと、次男石太郎、三男金三郎と次々に子宝に恵まれるが、いずれも夭折。文政7年、62歳の一茶は再婚、64歳で再再婚した。文政10年6月1日、柏原の大火に遭遇し、母屋を焼失した一茶は、焼け残りの土蔵に移り住む。この年の11月19日、一茶は中風により、65歳の生涯を閉じる。
 一茶の句に「木枯や隣というも越後山」があるように、彼の生れは柏原、越後との境である。前には妙高山、黒姫山、飯綱山が肩を並べ、後は戸隠である。この山々の裾野と、後に聳える斑尾山の裾との縫い目が柏原である。旧制新潟中学時代から有恒学舎の教師時代の会津八一は、短歌よりむしろ俳句に関心を寄せ、大学生の頃から小林一茶に傾倒していた。有恒学舎に赴任したのを契機に、一茶の研究に打ちこみ、新井町の醸造家入村四郎宅から一茶自筆の『六番日記』の一部を見つけた。『一茶句帳』、『一茶句集』、『おらが春』にある従来知られている一茶の句は2,400~2,500句であったが、この八一の新発見により、一茶の未公開の句が一気に2,500~2,600句ほど加わり倍増した。

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(村松春甫画 一茶記念館)

 昨日は良寛について述べたが、二人にはよく似た句がある。

焚くほどは 風がもて来る 落葉かな(良寛
焚くほどは 風がくれたる 落葉かな(一茶)

上の二句に於ける「もて来る」と「くれたる」の相異は何か。一茶の句が当時ひろく知れ渡り、良寛の耳にも入り、それが又良寛の口から多くの人々に伝わったのだとしても、「焚くほどに風がくれたる落葉かな」と「焚くほどは風がもて來る落葉かな」と同じ句とみることはできない。「くれたる」が良寛によつて幾度となく口ずさまれているうちに、いつしか「もて來る」と変わったと考えると、その転化にはかなり深い意味がある。深く味つて見ると、僅かにその一つの言葉の違いから二つの句全体が違ってくる。「くれたる」には自分に対して自然が計らってくれたという気持がある。しかし、「もて来る」は自然の変化だけで満たされている。自然は私に気を遣っていない。自然は自然のままで、その恵みにあづかり、感謝するのは私からである。一茶と良寛はやはり違う。
53歳で「焚くほどは風がくれたる落葉かな」の心境にまで達した一茶の辞世の句は次のものである。

露の世は 露の世ながら さりながら