「紅葉狩」あるいは戸隠の鬼女

 葉が赤くなるのは葉の中のクロロフィルが分解され、赤いアントシアンが生成されるから。一方、黄色になるのはクロロフィルが分解され、黄色のカロチノイドが残るため。モミジはひときわ紅色の目立つカエデの仲間。カエデの中でも葉の切れこみの深いイロハモミジの仲間は葉が大変美しく、多くの人に愛でられてきた。植物学的にはモミジもカエデも「カエデ」、どちらも分類上はカエデ科のカエデ属の植物。カエデは世界に幅広く分布しているが、モミジとして親しまれているカエデは中国や朝鮮半島に数種自生するのみで、それ以外は日本列島に集中している。カエデは日本で磨かれ、モミジと呼ばれ、日本の秋を代表する植物となっている。
 カナダの国旗はカエデ(メープル)。「紅葉(もみじ)」の語源は、紅花から染料を「揉(も)み」出す様子から、「もみ」が「紅」を指すようになり、楓の紅葉もこの紅花から染料を抽出するときの色の変化の様子と似ているので、「もみずる」が「紅葉(もみ)ずる」になり、さらに名詞化して「もみじ」になったとのこと。

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 春の花見、秋の紅葉狩り、いずれも同じように物見遊山と言ったのでは何か腑に落ちない。春の花に浮かれるのはわかるとしても、秋の紅葉に浮かれる人はいないだろう。紅葉には心浮かれるのでなく、物のあわれを感じるべきなのである。平安貴族たちは春の桜や夏の藤を愛でた。桜などは内裏に植えられていたが、紅葉を楽しむには自生する山に赴く必要があった。彼らにとって秋の行事はお月見と重陽(ちょうよう)の節句。彼らは美しい紅葉の赤に無常を感じ、やがて来る冬の寂しさ、枯れて散る葉に死をを重ねていたのかも知れない。例えば、『平家物語』では、壇ノ浦の合戦の後、波間に平家の赤い旗が漂い、それは紅葉のようだった、という描写がある。平家の赤はもの悲しさを象徴する色。紅葉狩りを楽しむようになるのは室町時代以降のことで、醍醐の花見で有名な秀吉は同じ年の秋に醍醐で紅葉狩りを開こうとしたが、その願いは叶わなかった。茸狩り(きのこ狩り)、薬狩り(猪狩り)のように山へ出掛け、紅葉した赤い葉を拾い集めたことから「狩り」になったらしい。

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 能の「紅葉狩」は、深紅に染まった紅葉の山中に鬼女が現れるというストーリー。黒味を帯びた山奥の紅葉の色は凄みが漂う。さて、そのストーリーはというと?戸隠山に「紅葉」という鬼女が住んでいた。山を降りては村の人々を餌食にするため、時の帝が平維茂(これもち)に鬼退治を命じる。維茂が戸隠山に向かうと、美しい女たちが紅葉の下で宴を催している。維茂は女に誘われるがまま酒宴に加わり、酔いしれ深い眠りに落ちる。この女たちこそ鬼女とその手下。罠にはまった維茂を前に、鬼女が本性を現わそうとすると、維茂の夢に神が現れ、お告げとともに神剣を与える。危機一髪のところで目を覚ました維茂は、神剣によって鬼女を退治し、戸隠山に平穏な日々が戻る。多くの場合、能の鬼は女の妄念から生ずるのだが、「紅葉狩」ではそれとは反対に、鬼が美女に化けている。よく似た戸隠、鬼無里の鬼女伝説は能の「紅葉狩」の影響を受けてできたようである。

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 蛇足ながら、鬼が女に化けるより、女が鬼になる方がずっと自然で、リアルだと思うのだが…それとも、女が鬼になり、その鬼がまた女に変身すると考えれば、いずれでも大きな違いはないということか。