大乗経典(2)

 観無量寿経(観経)は「どんな極悪の凡夫であっても南無阿弥陀仏の念仏を称えることによって救われ、極楽に往生できる」と説く経典で、法然の浄土宗の拠り所。この経典のサンスクリット原典は伝えられておらず、漢訳の『観無量寿経』のみが現存しています。観経の内容を見てみましょう。 

 経典の常套文句「私はこのように聞きました」で始まる。あるとき釈尊はインドの王舎城という国にある「鷲の峰」に千二百五十人の修行者たち、三万二千人の諸菩薩とともにいました。その時、王舎城ではマガダ国王の親子の間に争いの悲劇が起こっていました。調達にそそのかされたマガダ国の太子阿闍世が、父の頻婆娑羅国王を牢獄に閉じこめたのです。王の身を案じた妃の韋提希は、自分の身体に食物を塗るなどして牢獄内に食物を持ち込み、ひそかに王に食べ物を与えていました。でも、そのことがわが子阿闍世に発覚してしまいます。阿闍世は怒りのあまり、韋提希を殺そうとしますが、家臣に説得されて、母親を宮廷にとじこめてしまいます。囚われの身となった韋提希は憂い憔悴して、鷲の峰にいる釈尊に教えを請いました。
 釈尊がこの願いに応じて韋提希の前に現れると、彼女は地面に身を投げ、号泣しながら訴えました。「私は過去に何の罪を犯したことによって、このような悪い子を生んだのでしょうか。釈尊よ、私のために憂い悩むことなき処をお説き下さい。」
 そこで釈尊が眉間から光を放って諸仏の浄らかな浄土を現出されると、韋提希はその中から特に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと訴え、そこに行く方法を説いてほしいと釈尊に懇願しました。
 さて、ここからが本論です。そこで、まず釈尊は精神を統一し、心を西方に専念して阿弥陀仏とその極楽浄土を観想する方法から説き始めました。まずは太陽が西の空に沈みゆく映像を頭の中に焼き付くようになるまで観想する「日想観」にはじまり、極楽世界のありさまや阿弥陀仏の姿やその徳などを観想し、自分が極楽浄土に往生しているありさまを観想するといった、十三の観想の段階が説かれました。これが「定善の観法」と呼ばれるものです。
 次に、釈尊はひとしく極楽浄土に往生する者といっても、そこには九種の分類(九品)があることを説きました。九種の分類とは、極楽に往生しようとする者を、その資質や能力から上品、中品、下品の三つに分類し、さらにそれぞれの品を上、中、下の三種に分類するものです。上品の者には上品上生・上品中生・上品下生の三者があり、それぞれに資質や能力の上下はあっても、いづれも大乗の教えにしたがい、深く因果を信じて極楽往生を願う人々です。さらに、中品上生と中品中生は小乗の戒律を守ることによって極楽往生を願う人々、中品下生は父母を孝養するなどの世間的な福徳を行うことによって極楽往生を願う人々です。これに対して下品に属する三種の人々は、上品や中品の人々が行うような福徳を行うことができないどころか、かえってさまざまな悪行を犯してしまう罪悪の凡夫ですが、このような人々でも善き人の教えに出会い、南無阿弥陀仏の念仏を称えるならば極楽往生することができます。これが「散善の行」と呼ばれるものです。
 このように釈尊が説いたとき、韋提希とその侍女たちは極楽世界のすがたや、阿弥陀仏および観音菩薩勢至菩薩を見て、歓喜の心が起こり、からりと迷いがはれて大悟し、さとりを得ようとする菩提心を起こして、極楽往生を願いました。
 仏(=釈尊)は、この経典の主題は何かという阿難の問いに対して、念仏することを強調します。つまり、一心に念仏せよ、と言って、説法を終えるのです。その後、釈尊は耆闍崛山に戻り、広く大衆に対してこれと同じ説法をしました。すると、これを聞いた大衆はみな歓喜し、釈尊のもとを辞しました。

 このように、観無量寿経は極楽浄土に往生する手立てとして、十六の観想を順々に説く経典です。そのなかで、初めの十三の観想は、座禅において阿弥陀仏や極楽浄土を観想することによって極楽往生を説くものです。これに対して第十四から第十六の観想は、観想と言われていても、実際には禅定の善行を説いているわけではありません。これらは、座禅もできないような、心が常に乱れている人々でもできるような極楽往生の善行を、上品、中品、下品の人々の資質に応じて説いているのです。
 さて、中国に観経が伝えられると、学僧たちは、この経典を「定善の観法」を説くものとして理解し、「散善の行」を説く部分はいわば補足的なものとみなして、重視しませんでした。釈尊は、極楽へ往生し、そこで仏となる行として「定善の観法」を勧められたのだが、それができない愚か者にも往生の道があることを「散善の行」と説くことによって示した、というのがこの経典の一般的な理解でした。でも、結語部分を読めば、経典のかなめは「念仏」にあると説いています。これはどういうことでしょうか。
 浄土真宗では、浄土教を伝え広めた七人の祖師を「七高僧」としてたたえますが、その中の一人が中国の善導(西暦613年-681年)。善導は、それまでの観経の理解を正し、どんな人でも救うというのが阿弥陀仏の本願だとすれば、観経の主題は下品に説かれるような「定善」もできないような人々ために念仏による極楽往生を説くことにあると考えたのです。
 でも、それならば、一体なぜ仏は韋提希に対して「定善の観法」や念仏以外の「散善の行」を順々に詳しく説いたのでしょうか。それは、かつてはわが子を殺そうとした過去があるにもかかわらず、自分が罪悪凡夫であるという意識をもたず、善人の行う「定善の観法」を教授してもらうことのみを請い、「散善の行」を請い求めない韋提希に自分の犯した罪を自覚させ、他力念仏の教えに導き入れるためでした。善導は、このように釈尊の意図を解釈したのです。

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 (隆信御影)

 善導によれば、観無量寿経は「罪悪の凡夫が念仏を称えることによって極楽往生し、智慧と慈悲をそなえた仏になる」ことを説くものです。この卓見によって、後に法然(1133年-1212年)は浄土教に救いを見出し、「ひとえに善導一師に依る」とその著書に明言しています。また、親鸞も「正信偈」の中に「善導ただひとり、仏の正意を明らかにされた」と述べています。釈尊の説いた観経は、中国と日本の僧たちによって浄土教の経典として読解されていきました。
 肝心なことは、善導、法然親鸞らが観経に説かれる罪悪の凡夫、念仏によってしか救われない下品下生の者とは他ならぬ自分たちのことだと自覚した点です。