自力、他力、自由意志、強者、弱者の議論:その耐え難い曖昧さ

(以前のノート「自力と他力」、「弱者への反発:ニーチェの場合」を読んだ上で、このノートを読み、比べてみてください。)
 原始仏教から大乗仏教への歴史的変化は自力本願から他力本願への見事なパラダイムシフト。キリスト教宗教改革は人間の自由意志の肯定から否定へのパラダイムシフト。このように表現すると比較宗教学的にいかにも内実のある共通性をもつ歴史的変化というように映る。実際、戦争と呼んでもよいような戦いまで引き起こしたこれらシフトは、当時の社会構造まで変えることになったが、自力と他力のいずれが正しいのか、あるいは人には自由意志があるのか否か、と言った肝心の問題への解答が得られたかどうかは不明のままで、しかもそれがずっと続いたままなのである。そのためか、原始仏教が誤りだと言う浄土教の僧はいないし、プロテスタントの信者はキリスト教徒でないというカトリックの神父もいない。
 これまでの議論では他力本願や神の全知全能のもとではすべてが計画され、配慮されていることが正しく、私たちの知識は浅薄で不完全なものに過ぎないことが論証されているかのように語られてきた。だが、正直に言うなら、どの議論も一つの前提のもとでのものに過ぎず、その前提が成立しないなら、何の意味も持たない議論なのである。その前提とは「神や仏(とそれらが有する本性)の存在」である。神の存在証明は中世哲学の重要項目(例えば、トマス・アキナスの5つの道)だったが、これまでになされたどんな証明も正しいと認められたものはない。仏教には仏の存在証明を意識的に行うという習慣さえなく、成仏の例示を経典を通じて物語るだけである。
 「神や仏が存在しなくても何の不合理、不都合も生じない」という言明が正しいことは私たちの限られた日常経験においてはほぼ自明のこと。聖典や経典の内容を無視することによって、物理世界に実質的な不都合が生じるかといえば、実際ほとんどの場合に聖典や経典が前提にされていないことから、何の変化も起きない。一日の生活に必要な物理的な事柄について、神や仏の存在を仮定しないと成り立たないという事柄を物理世界に見つけることは不可能。神を仮定しない科学理論は合理的で、経験的な説明がおかしいならば、そのおかしい理由が解明される。科学理論が不合理、不都合を生み出すなら、その理論は修正されるか、廃棄され、新しい理論に変更され、不都合が解消される。その繰り返しによって科学理論は進化し続ける。聖典や経典は変化しない。それは全く正しいからで、変化する科学理論は常に暫定的に正しいものに過ぎない。だから、科学理論が誤っているとなると、様々な不都合が生まれてくる。そして、この不都合が科学理論を進化させるきっかけとなってきたのである。
 「信仰は信じることであり、証明することではない」のは確かだが、神や仏を仮定した論証が正しいと主張するには、その仮定の証明がなければ、何の意味ももっていない。特に他力や自由意志否定論は神や仏の絶対性、普遍性を前提にするゆえに、神や仏の存在証明が不可欠となる。だが、神や仏の存在を否定しても不都合が起こらないことは、存在を仮定しなければならないということがなくなり、それゆえ、存在証明は不可能となる。
 神や仏が差配し、支配することを因果的に納得できる仕方で説明できるなら、神や仏の力が具体的に理解できることになり、信頼できるのであるが、因果的な成り行きへの神や仏の関与の仕方は全く不明。実際、聖典も経典も神や仏の力を奇蹟としてしか説明しない。穿った言い方をすれば、奇蹟としてしか述べることができないのである。奇蹟の過程が物理学的にわかるのであれば、奇蹟ではなくなってしまい、神や仏の偉力は神通力を失ってしまう。全知全能の神や仏ならば、自らの行為の過程を正確に知り、伝えることができなければならない。それは私たち人間には理解できないことに過ぎなく、神や仏のみわかることだとしても、その「理解できない」理由は神や仏の存在証明を私たちができないことを表明することにつながり、実に痛し痒しの状況を生み出すのである。
 ここで、これまでの議論に登場した重要項目の間の関係を図式的にまとめておこう。

大乗仏教は他力本願を基本にするが、それは自由意志を否定し、すべてを神の決定と捉     えるプロテスタントの考えに類似する。
原始仏教は自力本願を基本にするが、それは自由意志を肯定し、人間の裁量を許すカトリックの考えに通じる。
(・因果的決定論の代表は古典力学的決定論であるが、それは自由意志を否定し、すべてが力学法則によって決定されるとする。)
(・因果的非決定論の代表は量子力学であるが、それは自由意志の働く余地を残し、量子力学の法則自体が確率的だとする。)

*100%の自由意志を認める釈迦は、無神論的な修行者
*数%の自由意志をもつのは、カトリック信者
*100%の物理的な決定論を主張するのは、古典力学的決定論
これら三つの言明のどの二つについても、それらは両立不可能である。つまり、三つが真になることはあり得ない(三つが偽になることもない)。

 さて、私たちが「信じる」スタートは、私たちがまず意志することであるが、その際の自由な意志はどこから生じるのか。どこかに発端がないなら、私たちは単なる情報処理モデルと解釈され、すべては因果的な結果として説明され、自由意志は存在しなくなる。「信じる」という宗教にとって最も基本的なことが、外部の環境からの刺激の一つになってしまう。他の刺激と同じように、神や仏は偶然的に信じられる、あるいは信じられない対象となってしまう。一方、天国や極楽での生活が神や仏を信じることによって保障されるが、その生活とは自由意志が何もない生活なのだろうか。私たちが望む理想の生活の中に自由意志が含まれていないというのはそれこそ信じられないことである。
 上のような図式的な言明を背景に考えるなら、これまでのどの議論もまともなものではなく、仮定や前提を認めた上での局所的な議論に過ぎなく、普遍的な話とは似ても似つかないものだったことがわかるのではないか。
 修道院や寺院での厳しい修行は、天国に行く、成仏するといった目標達成のマニュアルが不完全であることの見事な証拠。元来、宗教も思想も世界や社会、そして人間についての大雑把な不完全マニュアルに過ぎない。いずれもとても不正確な経験的な手引きでしかない。また、倫理は行為とそれを引き起こす自由意志をどのようにコントロールするかの方法。宗教も倫理も共に実在論的な意義をもつように思えるのは、いずれも実に巧みに心理的なレベルでの説得力をもっているからである。特に、宗教がその威力を発揮するのは物理世界ではなく心理世界。天国や極楽は聖典や経典で描かれるシナリオとそれを巧みに演出する宗教家によって物語の実在化が行われ、私たちの心に訴えることによって心理世界を通じて理解され、実現することになる。
 ニーチェの私たちの観点を逆手に取ったような議論も倫理に関する常識を巧みに前提したもの。彼の弱者の倫理を人間だけでなく生き物全体に広げて適用しようとすると、彼の主張が維持できないことが明らかになってくる。生き物の生存や生殖の工夫という観点からは、全く別の姿が浮かび上がってくる。生物個体が中心ではなく、生物集団が中心になり、集団内での有利、不利が適応度の違いを生み出し、それが自然淘汰の原動力となる。そこでの強者、弱者とは、平均適応度の高い個体、低い個体と解釈でき、ニーチェの強者や弱者とは全く別の意味をもっている。人間が人間以外の動物とは異なる特別の倫理をもって生活していることの証明が何もないところで、人間社会での強者と弱者の常識的な区別を前提にして議論することは、あまりに特殊的で、役立たないはずだが、そうだとは誰も思い至らない。きっと、ニーチェ自身も気づかなかったのだろう。

 これまで述べてきた事柄について、誰もが考える月並みな言明となれば、きっと次のようなものだろう。

・いつも強いわけではなく、いつも弱いわけでもない。
・自由に行動することも、規則に従って行動することもある。
・時には自分の力でやり、時には人の助けを借りてやる。

宗教的な内容とこのような分別めいた平凡な内容との落差は、宗教的な内容と科学的知識との落差に劣らず大きい。それゆえ、宗教的な言明に科学的な知識を使って一途に反応するだけでなく、分別なるものを使って対応するのも一つの方策だということを忘れてはならないだろう。