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健全なる異端、あるいは正統と異端の消滅(1)

 健康と病気、正常と異常、正統と異端といった区別、あるいは差別が私たちの社会には歴然と存在している。あるものは不当な差別、別のものは必要不可欠な区別と捉えられ、差異や相違が社会そのものの基本的な特徴になっている。個人は個性をもつゆえに個別的に行動し、それと同時に利益を共有するゆえに集団のメンバーとして共同で振る舞う。個人や集団の間には意見の対立や異なる見解が常に存在し、それが社会を動かし、歴史をつくる原動力となってきた。
 そこで、適切な区別や識別の基準があるのかどうか探ってみよう。適正な基準があれば差別ではないという些末な結論を引き出すことではなく、その基準が「知る、わかる」という最も人間的な営みにどれほど深く関わっているかを知ることになると思うからである。その最も単純でわかりやすい基準の例は科学的知識。その知識に合致していれば真、そうでなければ偽ということから、区別が真なら不当な差別ではないということになり、差別は偽なる言明に基づいてなされていると推測できることになる。この単純なアイデアを一般化すれば、科学知識には異端や正統という区別は原則的になく、真偽に基づくことが強いて言えば唯一の基準ということを意味している。だが、実際には科学的な仮説に価値が紛れ込むことによって、価値から独立しているとは言い難い。何しろ科学そのものが異端の活動として教会から問題視された代表格だった。ジョルダーノ・ブルーノもガリレオ・ガリレイも異端者として審問を受けた歴史は誰もが知っている。

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(ジョルダーノ・ブルーノ)

 人間には個人差があり、社会集団に意見の対立や異なる見解が林立するのは当たり前の健全なこと。生き方、立場の違いは人間にとって不可欠なことだが、それらが正統、異端と区別されると、しばしば差別につながる。だが、それを逆手にとって差別を強要するのがこれまでの社会的な習慣だった。それが政治や経済なら思想やイデオロギーに、宗教なら教義によって差別化が正当化され、何が正統、何が異端かが決定されていた。そこで、まずは宗教での正統と異端の歴史的な例を振り返っておこう。

西欧の異端
 2世紀頃に「異端」概念が登場し、それ以来様々な経緯の中で、キリスト教における「正統」の教義と共に形成されていった。まず2、3世紀のグノーシス主義を巡る論争があり、4世紀末までにキリスト教が国教化される過程で、正典としての新約聖書が確立、4、5世紀に正統教義を巡る論争を経て、451年カルケドン信条の制定で三位一体論、キリスト両性論が正統として公認され、文書として規範化されていく。異端とされた古代教派は次第に姿を消していくが、このキリスト教の発展の過程は「異端」を排除し、「正統」性を確立する過程であり、「正統」を権威づける制度として教会が誕生することになった。
 「異端」が再び語られるのは11世紀。西方教会フランク王国の力を背景としてキリスト教世界の拡大を進めたが、9世紀後半フランク王国が解体すると諸領主へ権力が分散し、封建社会化が進み、聖職者たちも地域社会との関係が強化され、聖と俗の密接な共棲関係が築かれる。「聖職売買」「聖職者妻帯」が一般化する中で、レオ9世の教会改革を先駆として、グレゴリウス7世による「聖職売買」「聖職者妻帯」の禁止やローマ教皇の首位権の主張、聖職叙任権闘争などの諸改革(グレゴリウス改革)が断行された。
 グレゴリウス7世は「カノッサの屈辱」によってハインリヒ4世に謝罪させたが、この教皇と皇帝との対立はキリスト教世界の秩序を巡る闘争であり、皇帝の反撃と教皇の死などもあって1122年のウォルムス協約で妥協がなされることとなる。この過程で聖俗の分離と教皇を頂点とする教会のヘゲモニーが確立することとなり、教会への服従が徹底されることになる。
 そして、ここに「不服従の異端」という考えが生まれる。教義的誤謬ではなく教会の権威に従わないだけで「異端」とされ、信仰だけでなく、政敵や反抗的な人々、貧民、ハンセン病者、性的・道徳的逸脱などもまた「異端」とされるようになっていく。「異端」という言葉の適用範囲の著しい拡大によって、様々な「異端」が次々と登場することになる。一連のグレゴリウス改革は改革を巡って議論百出。教会が目指す改革の方向からずれる人々も数多く登場するが、服従か不服従かの差が即「異端」か否かの基準となった。
 12世紀から13世紀にかけて、カタリ派、ヴァルド派、聖霊派といった様々な「異端」が南フランスを中心に登場し、アルビジョア十字軍が組織され、異端討伐の軍が差し向けられた。そして、虐殺と強制改宗、異端審問が行われるようになる。実際、異端とされたヴァルド派とフランシスコ修道会の祖アッシジのフランチェスコの教えとの間に大きな違いはない。前者が教会支配に抵抗し、後者は教会に服従しただけに過ぎないのだが、その違いが前者は弾圧、後者は隆盛という不当な差を生んだのである。教会とは違う救済の道を模索する運動が「異端」と呼ばれたのある。支配権の強化を望む教会とそれへの抵抗は、「正統」な権威による「異端」の排除という結果につながる。「不服従の異端」はやがて教会秩序を守る聖職者たちによって「悪魔の陰謀」と位置付けられていく。教会というキリストの身体を穢す者たちとして位置づけられた異端は、教会の側からはそれぞれの思想や教義は無視され、一括して弾圧されることになる。
 ヨーロッパ最初の異端審問は、1230年グレゴリウス9世によるものとされる。「異端的邪悪に対する審問」と呼ばれる司法手続きが托鉢修道会ドミニコ会フランシスコ会、アウグスチノ会、カルメル会)に委託され、ドイツのレーゲンスブルク、南フランスのラングドックなどに次々と設置され、キリスト教世界を脅かす「悪魔の陰謀という異端」を取り除くことが目指された。カタリ派やヴァルド派に対して異端審問が行われ、改宗に従わない者は火刑に処せられた。

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ジャンヌ・ダルク

 カタリ派の壊滅、ヴァルド派の逃走、聖霊派の消滅など14世紀半ばまでにヨーロッパでの異端審問は沈静化していくが、新たな異端を求めて15世紀に入って異端審問制度を導入したのがスペイン。スペインでの異端審問はそれまでにない凄惨なものだった。

浄土真宗の異端
 大谷派東本願寺新井別院は妙高市下町の旧北国街道沿いにある。願生寺はかつて越後ではなく信濃国水内郡平出村にあり、平出の願生寺と呼ばれていた。願生寺の由来は、『日本名刹大事典』に「新潟県新井市除戸。真宗大谷派、大高山。本尊は阿弥陀如来。開山は親鸞。開基は尊願坊。寺伝によれば、開基尊願坊は建久6年(1195年)法然の教化を受けて仏門に入ったが、のち健保2年(1214年)親鸞に帰依して下総国下河辺庄に一宇を建立。のち応仁2年(1468年)信濃国水内郡平出村に移り、九世英賢の天正年間(1571-1591年)上杉氏に招かれて新井に移転した。」と記されている。つまり、願生寺のルーツは下総国(千葉県)。15世紀に信州の平出村に移り、第9世英賢の時に越後の新井に移転、新井では願生寺と呼ばれた。実は、北信州から越後上越地方にかけての有力な真宗寺院は、願生寺と同じく関東に起源をもつ大寺院が多い。彼らは磯辺門流と呼ばれ、初期真宗門徒の有力な集団だった。

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歎異抄蓮如書写本 龍谷大学学術情報センター蔵)

  越後と北信濃に触頭寺院(ふれがしらじいん、寺社奉行に任命された特定の寺院で、地域内の寺院の統制を行なう)として絶大な教勢を誇っていた新井の願生寺と親鸞聖人の居多ケ浜上陸以来のゆかりの有力寺院だった高田の浄興寺との間に教義論争が巻き起こる。それは十五世英誓の時で、いわゆる異安心(いあんじん、異端のこと)事件。新井願生寺方と高田浄興寺方に分かれ、多くの末寺門徒と本山東本願寺を巻き込んで大論争に発展し、その裁定に寺社奉行が乗り出すまでになった。真宗では教義の解釈、受取り方の違いを「異安心」と言う。論争になったのは「小児(15歳以下の者)は往生して仏になれるか、なれないか。」という問題。この問題を巡って「小児は往生できる」という浄興寺方と「小児は往生できない」という願生寺方との主張が対立したのである。この論争は小児洗礼に関するキリスト教での論争に通じるもの。
 あくまでも強硬な願生寺方に困り果て、浄興寺方は本山に訴え出る。双方が本山に呼び出され、吟味され、その結末は願生寺方の敗北。首謀者は追放、願生寺は取り潰しと決まった。願生寺に加担した寺院は東本願寺の末流に留まるものと、取り潰しの難を逃れて仏光寺派に変わるものとに分かれた。
 しかし、願生寺は本山の一方的な処分に納得せず、翌年、江戸の寺社奉行に上訴する。そこで、大詮議が始まる。詮議の結果はまたも願生寺方の負けで、本山に逆らった不届き者という裁定が下った。信心のあり方、教義の解釈の問題は不透明で真偽の決着がつかないまま、願生寺側の訴えは却下された。浄土真宗では、古来より小児往生論が議論されてきた。これは「ものの分別もつかない幼児が浄土へ往生することができるのかどうか」について論争したものである。 異安心論争の裁定を取り持った東本願寺は貞享二年(1685)敗れた英誓を追放し、その後を新井道場とした。元禄元年(1688)東本願寺十六世一如上人が荒井掛所と改称し、以後教化統制に力を入れ、高田別院や稲田別院(光明寺)などの支院や願楽寺、聞称寺、照光寺などの寺院を合わせて60を越える寺をまとめる中心道場となり、明治9年(1876)に新井別院と名前を改めた。何度も災害にあい、現在の本堂は明治11年(1878)に雷による火災で焼失後、明治28年(1895)に再建され、桁行き、梁間それぞれ十八間は木造建築として新潟県最大級を誇っている。