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自由意志存在論の自由放任、成り行き任せの展開

 自由意志が存在するかどうか、存在するならどのような仕方で存在するかがここでの一応の主題。それは心身問題(mind-body problem)の中の問題の一つで、(信念とは異なる)意志や欲求の存在に関する考察と考えてよいでしょう。自由意志と対をなす事柄と対比することによって、その本性を明らかにする戦略がこれまでよく採られてきましたが、私も既に以下のような事柄との比較、対比を何度か飽きずに考察してきました。それら事柄を挙げれば次のようなものが思い出されます。

自由意志と宗教(キリスト教仏教
自由意志と物理学
自由意志と因果連関
自由意志と行為
(「自由意志」という堅苦しい名詞ではなく、「知る、信じる、欲する、望む」といった心的な状態を表現する動詞を宗教、物理学、因果連関、行為という文脈で考えることによって、より一般的、より具体的に心身問題の核心へと分け入ることができます。実際、昔から哲学者たちはそうしてきました。)

 これらの対はいずれも、この物理世界の因果過程と心理的な出来事の間の関係についてどう捉えるかという問題を同じように引きずっています。「どこで、いつ意志したか」は人の心の世界の出来事のようでありながら、特定しようとすると、場所や時間について物理的に表現せねばならず、心の中だけでは答えようがなくなり、物理世界に踏み込まなければならなくなるのです。物理的な因果過程と「意志(や欲求)をもつきっかけ、発端、出発点」が上手く出会えるかどうか、両立するかどうか誰にもよくわからず、それが自由意志が関与する因果的系列のもつ隔靴掻痒ともいえる特徴になってきました。
 自由こそ人が人生を賭けて獲得しようとするものなのに、自由は幻想に過ぎないのかも知れないと思いたくなるのが、自由の哲学的分析には常に付き纏ってきました。自由を追いかけても自由は掴まらず、どこかで仮定せねばならなくなります。見つからないので、無理やり存在させようという訳です。自由の出現を因果過程の中で実現しようとすると、また表現しようとすると、どのようにしたらよいのか誰もが戸惑うしかなくなります。例えば、因果過程のどこを探しても、どこまで遡及しても、自由意志のかけらさえ見えてきません。その理由は単純明解。突然に意志が生まれるというのでは意志の生まれる原因はないことになるからで、ないものは見つけることができません。それは幾何学の点のようなもので、自由意志の出現の瞬間を物理的に特定することはSupertaskでしかないと考えるのは私だけではありません。
 私たちは知識を使って周りで起こる出来事をつなぎ合わせ、それによって世界を理解しています。世界の現象変化は出来事の因果系列として理解され、何が起き、未来はどうなるか推測されてきました。人はそれを物語と呼び、自分の人生も物語であり、その主人公が自分だと教えられてきました。私たちは過去に神話、聖典、経典と呼ばれる物語をもち、それらによって世界や民族の歴史を理解してきたのです。今でも物語は私たちが世界を知る基本装置の一つです。そして、そのような物語は今でも作り続けられていて、因果系列の巧みな構成と配列ができる人が詩人、作家と呼ばれてきました。
 物語作家はあり得ない、矛盾する出来事の系列は書かない、というより書くことができません。でも、人の欲望から行動に至る一連の過程は書くことができます。というより、実に多くの物語がそれを劇的に描いています。それが描けなければ人々を魅了する作品にはなりません。波乱万丈の冒険の叙事詩、見事な心理描写の抒情詩が求められてきました。でも、その系列をより克明に表現することを突き詰め、過程の間を究極まで埋めていこうとすると、遂には誰も描けなくなります。どのように眼のよい人でも原子を見ることができないように、因果過程の細密描写にも限界があります。連続的な運動変化を不連続的な言語表現で表現し尽すことができるかと尋ねられれば、できないと答えるしかありません。日常生活で原子が見えなくても殊更不都合が生じないのと同じように、因果過程の細密描写ができなくても物語の創作に不都合は生じません。作家が書けると自信を持てるのは自らの思い込みではなく、経験的な常識概念(folk concept)を共有し信頼しているからです。心理的な過程や脳の生理過程を作家は直接見たことなどないのに、科学用語ではなく、日常の言語を使って見事に描写できます。それは嘘に近いと言ってもいいのですが、誰もその表現に親しみ、その表現を使って考え、会話しているため、異議申し立てはできなく、それら描写は真正の出来事の描写と認められ、巧みな創作として称賛されるのです。物語は常識概念を前提にして内容が理解されてきました。常識概念は時代とともに変化する歴史概念ですから、現在の私たちの常識はギリシャ時代の常識とはすっかり変わっています。科学概念が一部変形され、常識概念として日常言語で市民権を得ることによって、科学概念が変化するのと同じように常識概念も変化しているのです。
 「水中で火事が起き、雪の中で熱中症になる」ことが正しいかどうか証明するのが馬鹿らしいのは、それはあり得ないことが常識になっているからですが、その種の常識が物語創作の前提に多用されています。ですから、誰も次のような言明を偽だと言い切るはずなのですが、時々限られた状況で真になる場合があるのです。常識概念による出来事の世界は実に柔軟で、同じ出来事でも状況に応じて起きたり起きなかったりで、科学的な過程に比べるとはるかに可塑的、恣意的なのです。それら二つの間には鉄とゴムほどの違いがあります。
「人は水中で息ができ、空を飛ぶことができる」(童話)
「人は死なない」(宗教)
「過去と未来は対称的である」(古典力学
シュレーディンガーの猫は半分生き、半分死んでいる」(量子力学

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 物語とは常識レベルの系列の描写から成り立ち、これが科学的な系列と矛盾しなければOKで、科学的に認めることができる系列よりは遥かに広い疑似科学的な系列になっています。厳密に科学的である必要などなく、科学的な系列に矛盾しなければ、どのような系列でも認めて構わないようになっているのです。ですから、正確にわからなくてもわかったつもりで出来事を理解した気になることができ、想像力が働く余地は科学の文脈より遥かに拡がります。SFはそれが明瞭にわかる例です。これは「知る」ことの「合理的水増し」と呼べるでしょう。宗教が唱え、説く事柄となると、自然現象だけでは説得力がなく、科学と折り合いがつかない事柄を敢えて奇蹟として導入することになります。超自然的な事柄が神や仏と結びつくことによって多くの神話や聖典、経典が編まれてきました。その宝庫が宗教なのです。神も仏も世界をつくるほどの力をもちますから、因果的な出来事の系列をつくったり、そこに介入したりすることは造作もないこと。とはいえ、奇蹟を実現する因果過程を神も仏も説明してくれません。私たちの自由意志の介入などそれに比べれば実に些細なことで、その程度しか自然に介入できない我が身の非力を嘆くしかないのかも知れません。
 さて、自由意志の存在について、その議論を現代風にアレンジすると、ビッグデータによる自由意志のシミュレーションが最も確実な理解の仕方になるのではないでしょうか。車の自動運転、ロボットの製作等と同じように、ビッグデータによる自由意志の構築です。自由意志を使って行動することが人為的にAIによって再現できるようになれば、それによって自由意志の謎が解決したとは言えませんが、自由意志を使う仕組みがわかり、自由意志を人と同じように使うことができるようになります。少なくとも、「自由意志は存在する」と言って構いません。既に私たちは類似の知識として量子力学をもっています。量子力学を使って様々なことがわかり、半導体をつくり、ブラックホールの存在もわかるのですが、量子力学が描く世界がどのようなものか私たちにはわかりません。それと同じように、自由意志が何なのかわからなくても、自由意志を発動させて行動することは人並みにできるのです。何かはわからないがそれが存在し、どのように働くかは言えます。これは、1の次の実数が何かはわからなくても、それがあることを証明できるのと同じようなことなのです。
 紙上の点を伸ばして線を引くことは幼稚園児にもできます。最初に点をうち、線をそこから伸ばせばいいのですが、これを手を使わずに頭の中で理屈通りに実行しようとすると、途端にすべてが不明になります。最初の点をどのように打ったらよいのか、サイズのない点をどのようにノートに記したらいいのか、誰にもわかりません。自由意志もこれに似て、その発動の始点はわかりません。その意味で自由意志の出発点の存在はSupertaskであり、微かな神業なのです。ですから、これは科学の問題ではありません。自由意志は点と同じで、物理的なものではないからです。自由意志の発動は点の存在と同じように物理的ではありません。
 物理世界では、点を打って、その点を延ばして線をつくることはできません。自由意志が働き、それが因果的に行動を引き起こしていくことはできません。これが現実の物理世界。でも、(数学的な)モデルの世界では点を集めると線になり、線は点に分割可能。自由意志から行為が生まれ、行為の出発点は自由意志。物理世界とモデル世界のこの違いは端的に物理と数学の違いであり、自由意志は物理世界では不可能でもモデル世界では可能なのです。そして、私たちが住む生活世界での常識的な因果系列は物理的ではなくモデル的なのです。モデルを自由に取り込むことができる物語は私たちの自由意志にその存在場所をふんだんに与えてくれます。
 私たちは二つの世界を時には重ね、時には切り離して語ります。生活世界の物語としての現象はしばしば説明できなくなり、その際はモデルの助けを借りることになります。これは科学的知識による世界と経験世界の重ね合わせなどと言われてきましたが、実際に起こっているのは上述のようなこと。いつも重ね合わせているわけではなく、わからなくなったときにだけ重ね合わせるのです。正確に言えば、重ね合わせるなどというバカな方法は誰も使いません。互いを補足し合うのであり、重ね合わせなどという手間のかかる仕方を日常生活で援用する人はいません。重ね合わせというのは不正確な表現で、実際は照合。照合が済めば、経験的な常識がもっぱら使われます。それがうまく行かないと、両方が入り乱れて、混同の中で問題が立てられます。Supertaskは物理的ではなく、物理的なものの数学的モデルに過ぎないのです。